みょうじなまえ 個展「Some Fairy Tales」
会 期:2022年4月2日(土) - 2022年4月24日(日)
時 間:13時-19時
休 廊:月火
場 所:TAKU SOMETANI GALLERY
展覧会URL:
https://takusometani.com/2022/03/12/みょうじなまえ個展「some-fairy-tales」/
みょうじなまえさんは1987年生まれ、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。本展「Some Fairy Tales」は、ヘンリック・イプセンの戯曲『人形の家』とみょうじさんの私小説『人魚』から紡がれる物語が舞台として展開されていました。
外から見えるウィンドウにはチューリップの書き割り (※背景などを平面的に描いて設置される大道具のこと。) 作品が。このチューリップについては思ったことがあるのでぜひ本レビューを最後までお読みいただけますと幸いです。
みょうじさんが在廊されていて、お話を伺うことができました。当サイトに写真を載せてレビューを書きたい旨を伝えると「大丈夫ですか?」と確認してくれました。一部、どストレートな表現がございますので、全てを載せずに文章で説明するなどしております。気になった方はぜひ会場で観てね。
注:本記事の作品の解釈についてはすべて私の個人の感想です。みょうじさんとの会話から明確な裏付けを得たというものでもありません。ご了承ください。
ベッドに横たわる白い着ぐるみは、みょうじさんの顔から型を取ったライフマスクと羊毛で作られています。
まず、ヘンリック・イプセンの戯曲『人形の家』について、簡単なあらすじをTAKU SOMETANI GALLERYさんの展覧会ページより引用させていただきます。
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1879年、デンマーク王立劇場で上演された。新たな時代の女性の姿を世に示したH・イプセンの代表作。全3幕。
弁護士ヘルメルの妻ノラ(主人公)がある出来事をきっかけに、それまで夫の愛情だと信じていたものが、実は自分を人形のように可愛がっていただけの行為であり、一人の人間として対等に観られていないことに気づき、夫の制止を振り切り家を出奔するまでの物語。
リアリズム演劇あるいは近代劇の代表作品であり、同時にしばしばフェミニズム運動の勃興とともに語られる。
西欧内部だけでなく、アジア諸国の女性解放運動や、それらをテーマにした創作物に多くの影響を与えた。
(TAKU SOMETANI GALLERY みょうじなまえ個展「Some Fairy Tales」より抜粋)
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本展に伺う前にこの『人形の家』を読んだのですが、100年以上前に書かれたものという感じがしないくらい、今 (2022年) の日本でも十分に通用する主題でした。いや、さすがに、女性解放運動も起こったし、フェミニズムの問題も至るところで議論されているし、もうその段階は超えたよ、と思いたいのですが「ジェンダー・ギャップ指数2021」で120位の日本では、この戯曲で提示されたことは、各々、個のレベルではまだまだ議論を巻き起こすものだろうなぁと。
そして、みょうじさんはこの『人形の家』で出奔したノラの、残された子の立場であると言います。
ここで「ん?」と見方が変わります。『人形の家』はノラが出奔して終わり、その後のことは書かれていません。残された子はその後、どうなったのか。
イプセンの『人形の家』と、書き割りの作品から連想される劇場、役、といったイメージから、本展を、女性の家庭での役割、未だ理想とされるもの、などを視覚的に見せるフェミニズム・アートの展示と捉えがちでした。しかし、その文脈から全く離れるわけではないですが、この展覧会「Some Fairy Tales」の本質には、より根深く、暗く、表舞台にはなかなか現れて来ない生々しい現実が表現されている、そう感じました。例えるなら「なぜ人を殺してはいけないか」と議論する以前に「今、ここで殺人が起きている」というような、現実の問題です。
それをしっかり感じるには、みょうじさんの私小説『人魚』を読む必要があります。
「お母さんな、ほんまは人魚やねん」( みょうじなまえ『人魚』より抜粋 )
『人魚』について、上記以上の具体的な文の引用はしませんが、この中で「一己の人間として生きる」選択をした女性による子殺しが、2世代に渡って繰り返されています。それは十字架となって永遠に女性を苦しめている。置き去りにされた子は、置き去りにされることがなければ、子を殺すという選択をしなかったのか? それは一つの人生を超えて、受け継がれてしまう女性の十字架なのか? 女性だけが負うべきものなのか? 女性は重い罪の意識を背負わなければ一己の人間としての生き方はできないのか?
私が画像を載せていない映像作品の一つに、裸の (つくりものの裸体ではない) みょうじさんがライフマスクと羊毛でできた着ぐるみを、撫でるように、寄り添うように抱えている映像があります。抱えられた着ぐるみは少し幼児のようにも見えます。脱ぎ捨てられた中身のない着ぐるみ。この映像の中での着ぐるみはみょうじさんの母であるように思います。成長した子が、いなくなった人を、一己の人間として、同性として、残された抜け殻から理解しようとする思いを感じ取りました。
このぬいぐるみの「人魚」の作品の上半身は、みょうじさんが偶然見つけたものだそうです。すでに制作していた羊毛の着ぐるみとそっくりなことに驚き、手に入れたそうです。そして、下半身を人魚に作り替えました。
着ぐるみを脱ぎ去り、生の身体として出ていった母のその後を思う時、みょうじさんにとって、おそらくその姿を人間として想像することが難しかったのではないか、と思います。下半身を切断し、性器をなくし、人魚として、新しい生を与えた。言い方を変えると、人外に棲まう者にしなければ、想像ができなかった。
これら女性にまつわる事実や問いは、性別関係なく、直視しなければならないことです。書籍「Some Fairy Tales」作品はおとぎ話ではなかった。実在するものだからです。「Some Fairy Tales」の中に収録されている原案資料には夫役の筋肉質のパフォーマー衣装も載っていて、男性もまた、着ぐるみに象徴される男性としての役割から逃れられない、としています。
そして、書き割りの作品の花の中で、まるで登場人物のように立っているものがあります。チューリップ2本です。
花はよく女性器に例えられると言いますが、この形状のチューリップから、私はむしろ男性器を想像しました。本展「Some Fairy Tales」の会場では男性は頭と性器のみが登場して、身体が見当たりません。原案資料には男性のマッチョな裸体の衣装があっても実際の会場にはなく、家族写真のように見える映像作品には全身が映っているにもかかわらず、動くための筋肉が感じられない。代わりに女性の身体は会場にとても多く登場しています。
世代にわたる子殺しが起こったはじまりの場所で、なぜ男性の身体がないのか。生まれつき女性よりも優れていると言われる男性の筋肉、身体に象徴される行動というものが、本展には見当たりませんでした。会場の大きさなどの都合もあるので、深読みし過ぎかもしれませんが、これは象徴的だと思います。男性は頭と性器しか登場しない。身体がなければ十字架を負えない。
しかし、会場のチューリップが男性器だ、とかそういう性別間の区別は、本来、不要なことかもしれません。性差でいがみ合うことが解決には向かわないからです。「チューリップ (つぼみ)」を男性器と見ようと女性器と見ようと機能しそうもないことから、性別の境をなくして、女性が負ってしまった十字架の、その存在をまず認識することから始めないとならないと感じます。無くすことはできないが、共に背負うことはできるはずです。
本展のぬいぐるみの「人魚」の作品を見た時、この問題はすぐには解決しそうもないという意味で「まだまだ続いていきそうだ」という感想を述べました。女性の出奔、解放を唱えるだけでは終わらない問題だからです。しかし、みょうじさん個人の中で、人魚を海に還すことで何か一つの区切りを感じることができるのであれば、それで「続かない、終わったもの」があってもよいと思います。これは私の個人の、勝手な願いに過ぎませんが。
どこまで正確に見えているか、自分も不十分かと思いますが、とにかく観終わった後、ぼーっとして他のことが考えられないくらいの印象を残した展覧会でした。
「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」
会場の外に向けて飾られているチューリップが、チューリップ以上の意味を持たないように、全ての人に感じてほしいと思います。ぜひ、足を運び、現場を感じ取ってみてください。
展示風景画像:みょうじなまえ 個展「Some Fairy Tales」
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