毛塚友梨 個展
「What am I ? What I am.」
会 期:2022年6月3日(金) - 2022年6月18日(土)
時 間:11時-19時 (最終日18時終了)
休 廊:日月祝
場 所:MDP GALLERY 中目黒
展覧会URL:http://mdpgallery.com/news/2521/
毛塚友梨さんは1984年生まれ、東京藝術大学美術学部工芸科陶芸専攻卒業。陶芸家のお父様の影響もあって幼少期から粘土に触れる環境で育ったそうです。小さい頃はろくろを回す力がないことから手びねりと言う手を使った方法で見よう見まねでお皿などを作っていた、と言う毛塚さん。毛塚さんの今の作品も、原始的とも言われる「ひもづくり」という手法でつくられた陶器の生活用品、室内設備で、柔らかさから無機質感まで陶器とは思えない表現力で、現代の生活、世相、人々の営みなどを映し出しています。
本展「What am I ? What I am.」の展覧会タイトルからは、自分が何者なのか? という問いに、作品を通して自問し続けた毛塚さんの姿勢が窺えます。2児の母であり、陶芸教室も営まれている毛塚さん。
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自分が作家なのか、それとも主婦なのか。陶芸家なのか、それともアーティストなのか。
作品はアートなのか、それとも工芸なのか。
毛塚と同様に自分自身が何者であるのかを自問している人々は、
世の中には多く存在しているはずだ。
しかし、たとえ周囲が無意識に、先入観や慣習によって多数派に誘導しようとしても、
ほかの何かになることができないことに毛塚は自問の中で気づく。
そして、全てのものは多次元的であり、在るがままの実体を受け止めなくては、
理解は生まれないと考えるようになった。
毛塚自身も、そう受容してもらえる未来が来ることを願い、作品を在るがままに展示する。
(毛塚友梨 個展「What am I ? What I am.」展示コンセプト より抜粋)
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在るがままを映し出す象徴として、入ってすぐの展覧会タイトルの下に鏡シリーズが展示されています。
「鏡ー折り畳みミラー」
「鏡ー手鏡」
「鏡ースタンドミラー」
鏡部分に「ひもづくり」のひもの跡が残されています。どういう自分が映っていると想像できるかな、、、? それは実際の自分とどれだけ乖離があるだろう? 他人が見た自分とはどれだけ違いがあるかしら? 「ひもづくり」の跡に木の年輪に似たものを感じ、自分の積み重ねてきた年月のことを考えたりなどしました。展示コンセプトにあった「在るがままの実体を受け止めなくては、理解は生まれない」の部分、全くその通りだよなと思いながらも、在りたい自分と実際の自分との間には永遠の溝がありそうだ、とも思ったり。
「Inside (カーテン 1)」
会場でいただいた作品説明によると、毛塚さんは陶芸を境界線と捉えていて、本体は容器の内側の空間であり、陶器の部分は内と外を隔てる境界線、とのことです (なるほど) 。そしてカーテンも境界線と言え、開き具合を調整して光を入れたり閉ざしたり、人の心と同様である、としています。
「Inside (カーテン 1)」カーテン左側
ひだが寄っているほうは、それだけ外に開かれていて光を取り込もうとしている、ということですね。
「Inside (カーテン 1)」カーテン右側
ひだが伸びて閉ざしているほうは、上部が少しひび割れていたりして、閉ざしつつも無理があったり、実は光を取り入れたいのかも、という複雑さを感じました。
「反復」
これは、、、現代のある瞬間に活火山が噴火して全て灰に埋まってしまい、未来になってから発掘されたもの、のようですね! (不謹慎な妄想失礼します) 。
「反復」(部分)
ついさっきまで、デスクで仕事をしていた感 (妄想の続きです) 。手を触れたくなる気持ちもわかります (触ってはいけません) 。
「反復」(部分)
ノート型パソコンとディスプレイ。リアルな組み合わせです。未来人の時代考証を聞いてみたいですね。この時代は忙しかったとされるのか、否か。
「反復」(部分)
ノート型パソコンの側面も細かく再現されてます。USBを差したくなる、、、!
「反復」(部分)
マウスに指の跡、ノート型パソコンのキーボード部分にも手の跡のようなものがあります。
「反復」(部分)
作品に触れることはできませんが、ギャラリーの方が細部を見せてくれました! ホチキスの内側まで、本当に細かい!
この「反復」という作品には、コロナ禍で「触れる」ということが意識されるようになったことから、本来、形に残らない触れた痕跡を作品内で可視化することによって、日常的に反復している行為を認識させる意図があるそうです。確かに、よく触れるところは決まっていたり、そこからどういう生活をしているのか、自分の癖、なども認識することができそうですね。まるで、発掘されたものから考証するかのようです。
陶器ということを忘れてしまうくらい精巧な作りなので、「未来において発掘されたもの」という見方をしても違和感を感じず妄想に没入できました。架空の未来人からみた現代の生活、という視点で今現在の自分自身を見つめるのも面白いです。
「発掘」については毛塚さんの他の作品にも関連したものがありました。
「思い出す限りでは」
遺跡等で発見される陶器は腐食を逃れ永く形をとどめているのに対し、人の感情や記憶は形のないもので、ともすれば瞬間的に忘れ去られてしまうもの。その、感情や記憶を陶器によって保存できないか、と試みた作品です。多くの人が共通して関わっている場所・室内設備として「浴室」を選び制作することで、毛塚さん自身の感情、記憶だけでなく、鑑賞者それぞれの想いを引き出すことを狙いとしています。
「思い出す限りでは」(部分)
「思い出す限りでは」(部分)
「思い出す限りでは」(部分)
「思い出す限りでは」(部分)
「浴室」という選択が絶妙です! 浴室の光景は、幼少期に家族とお風呂に入った思い出があったり、大きくなって、大人になっても1日の出来事を反芻しながら何気なく見ていた景色であったりと、色々な感情を呼び起こさせる場面です。服を脱いで裸になる場所なので、最も自然に自分自身と向き合っている瞬間、と言えるのではないでしょうか?
陶器という割れやすい素材が、途切れ途切れになって壊れやすい記憶そのもののメタファーになっているようにも感じますし、グレーの色合いも、時が流れたことや記憶の中にのみ存在するものを表しているようでした。
浴室からも連想される水の流れ、水の行く先がテーマとなっている作品もあります。
「底」
「底」(別角度より撮影)
底が割れているの、見えますか?
「愛 弐」
「愛 陸」
「愛 玖」
「愛 捌」
「愛 伍」
「器 5」
「器 3」
「器 7」
「愛シリーズ」「器シリーズ」はそれぞれ愛情の注ぎ口が蛇口に例えられ、それを受け止める器の大きさや状態で、様々な精神が表現されています。
蛇口のほうは、2つに分かれているものや全く同じ形状のものがあったり、受け止める側の入れ物は、容量が少なくてもちゃんと貯めておけるもの、一見貯めて置けそうだが底が壊れているもの、既に壊れているもの、浅いもの、蓋がされ受け止める気がないもの、など示唆に富んでいます。
在廊されていた毛塚さんご本人にお話を伺うことが出来ました。色々なことを真摯にお話してくださいました。「愛シリーズ」の伍 (5) までは友人の死などを経験した後に制作され、それから約10年の年月を経て陸 (6) から玖 (9) までを制作したそうです。愛情と受け止め方のバリエーションが広がっているように感じました。
「愛 陸」(別角度より撮影)
「蛇口は1つだけではなく、他にも愛情を分け与えようとする。容器は一見、愛情を貯めておけそうだが、底が壊れているため貯めることが出来ない。(会場配布の説明文より抜粋) 」
「愛 玖」(別角度より撮影)
「受け止めた愛情を持ち歩けるし、分け与えることもできる。(会場配布の説明文より抜粋) 」
開くのに驚き!
「愛 捌」(別角度より撮影)
「蛇口は均等に分け与えて、宝石箱は受け止めた愛情を宝物にする。(会場配布の説明文より抜粋) 」
この2つの宝箱は毛塚さんの2人の娘さんを表しています。宝箱の形状もそれぞれの性格などを反映しているそうです。毛塚さんは蛇口から均等に愛情を注いでいます。蛇口をひねる部分がそれぞれの宝石箱に顔を向けているような角度になっていました。
毛塚さんのHPを拝見すると、作家活動10年の節目でもあった2020年の10月に開催された個展「10 years」時のブログには
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私は、陶芸を続けていくために、この10年間かなり遠回りをしてきたと思います。
自分の陶芸の設備を維持するために、経営をしたり、
後ろ盾がない状況で陶芸で生活を成り立たせるために作品を作れない期間も長く経験しました。
(YURI KEZUKA ブログ より抜粋)
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と綴られ、自身の活動を振り返っています。
作家か主婦か、陶芸家かアーティストか、と「自分は何者か」と問い続けた過程には本当に様々なことがあったのだろうなと推察します。そしてそれは今後も「在るがまま」続いていく、毛塚さんの作品に一時触れ合った鑑賞者に過ぎない私ですが、そのように感じることができました。自分はこういう者だ! と言える人ってどれくらいいるんでしょう? 生きているだけで本当に色んなことが起きるし、その度に様々な自分になっていくような気もするし、そして何かある度に、闇雲に自分の個性を追い求めなくても自分と他者はけっこう違う存在だ、ということに気付かされたりもします。
「Unisexーキャップ」
「Unisexー手袋」
今は服というモチーフに挑戦していると言う毛塚さん。Unisexシリーズの布の質感もとてもリアルです。
「性別、人種、国、社会的立場などが違ったとしても、どのような人 (性別) が身に着けても、形が変わらないものを制作しています。世の中には自分を自分らしく生きていくことが難しい人が多く存在しています。どんな人にも自分らしく生きる権利があるのではないでしょうか。(会場配布の説明文より抜粋) 」
元より私たちは骨髄の適合だって難しいほど、それぞれが違う生き物です。自分を在るがままに受け入れられたら、その姿勢を他者に向けることも可能な気がします。
作品の精巧さに驚かされながらも、見慣れた形と見慣れない質感の差で、自分の身の周りのことを改めて考える機会を得ました。自分の身の周りのこととは自分のことです。ぜひ、足を運んでみてください。
展示風景画像:毛塚友梨 個展「What am I ? What I am.」
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