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感想 高橋鮎子 個展「Kalavinka」

 

高橋鮎子 個展「Kalavinka」

 

会 期:2022年10月14日(金) - 2022年10月29日(土)

時 間:13時-20時  

休 廊:日月

場 所:TAV GALLERY

展覧会URL:

https://tavgallery.com/kalavinka/


 

高橋鮎子さんは1994年生まれ、多摩美術大学美術学部油画専攻卒業、パリ国立高等美術学校交換留学、東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。本展「Kalavinka」では「ルッキズムとその周辺について」を主題にスカーフやネックレスなどの首飾りに着想を得た新作を中心に発表されています。「近年、エルメスの開発した「ハンギング・システム」が人口に膾炙し、スカーフを壁に吊り下げて飾るカルチャーが広がりを見せています。(TAV GALLERY 展覧会リリースより 抜粋)」という部分に、過去に額装スタッフとして働いていた時、エルメスのスカーフを何枚か額装した際の私的な思いとリンクするものを感じ取り、伺ってきました。

 

 

まずその私的な経験を詳しく書きたいと思います。額装の仕事では、絵画作品以外のものを額に入れたいという要望は多く、エルメスのスカーフを飾りたい、という要望もけっこう多いのです。エルメスが販売している「ハンギング・システム」(マグネット式のワイヤーフック。磁石で四隅を挟み、引っ張って吊るすように飾るシステム、取り外せばスカーフとして使用が可能。この「ハンギング・システム」も、購入者側の飾りたいという要望から生まれたものかも知れません) というものもあるのですが、それを用いて「吊るす」のではなく、ピシッとシワなく伸ばされた平面作品のようにスカーフを飾りたいという要望があるのです。エルメス側としても「額装」は推奨しているわけではないようですが、そういった要望があれば、額装の専門店を案内するしかないようです。実際問題としてスカーフを平面作品のように額装することは容易ではなく、ピシッとシワなくするためには、スチレンボードなどの平面にスカーフの端を数ミリ巻き込んで裏側や側面で額装用のテープを用いて留める、という作業が必要で、これは難易度の高い作業です。シルクの素材は伸びやすいため過度に引っ張ってしまうとヨレの原因になり、手の微妙な感覚でシワを伸ばしながらヨレなく、しかも描かれているデザインに影響なく張り込まなければなりません (デザインの中の直線が、引っ張る力の微妙な違いにより容易にうねった線に変わってしまうのは想像していただきやすいかもしれません。スカーフは織りの方向や保管状況などにより、もとの真四角に近い状態をキープ出来ないのです) 。隅の部分もある程度テンションをかけて伸ばさなければピシッとした平面にならないのでスカーフの形が変わりますし (これもキャンバスを張ったことのある方は容易に想像出来るかもしれませんが、まず十字方向にテンションをかけて止め、隅は初めは仮留めし最後に引っ張って留めることでピンと張った平面が出来あがります) 、テープを用いることもあって、一度額装してしまえば、スカーフとして身体に巻いて使うことは出来なくなります。それらを了承した上でも「額に入れて飾りたい」という要望はあり、新品で買った (決して安くはない) スカーフにわざわざアイロンをかけて持ち込んでくださる方も多く、それほどまでにスカーフに描かれているデザインや絵が作品として好きなんだな、と感心する一方、エルメスのスカーフでなかったら飾らないのでは?という穿った見方をしてしまっていたのも事実です。なぜなら、布地等の額装は、依頼者本人が刺繍した作品や思い出の品の場合が多く、新品のスカーフの額装はエルメス以外に受注したことがありません。

 

 

エルメスのスカーフを飾ることの、その意味とはなんだろう?

 

 

少し意地悪な見方ですが、この「エルメスのスカーフを飾ることの意味」に対して感じた疑問が、本展「Kalavinka」でも問われていたと思います。

 

 

まずはスカーフの作品から。吊るされ方にも意味がありそうです。

 

 

 

「Kalavinka #2 savage」

 

まず「ハンギング・システム」についてですが、本家のエルメスの商品にはロゴが入っており、8万〜10万円くらいするものです。調べてみて値段にびっくりしました、、、。本展ではその構造を模したものが使用されています。マグネットとワイヤーを利用した簡単な構造ではあります。

 

そしてこの「吊るし方」です。ふんだんに「たるんで」います。これは本物のエルメスの「ハンギング・システム」を使用してないからこうなっている、というわけではなく (何と言っても構造はとてもシンプル) このたるみ具合も意識して計算されて吊るされているものと思います。

 

「Kalavinka #2 savage」(部分拡大)

このワイヤーの遊び部分を見るに、ピシッと引っ張って吊るす意図はなかったものと思われます。

 

「Kalavinka #2 savage」(部分拡大)

スカーフのたるみで出来た影の様子から、重力でたるんだ首の皮膚やお腹の脂肪を連想させます。


 

「Kalavinka #2 savage」(部分拡大)

このスカーフの柄にも意味が込められていて「Kalavinka #2 savage」には宝石やパール、ゴールドといった身を飾るもの、かつ、高価とされているものが見て取れます。

 

「Kalavinka #2 savage」(部分拡大)

中央は欲望の業火が描かれています。この炎の表現も、30億円で出光美術館が購入したと言われている「伴大納言絵巻」に描かれている炎を連想してしまいました。


 

宝石、パール、ゴールド、高価なもの、価値のあるものが集まっているのにタイトルには「savage (どう猛、粗野、下品) 」の文字がついているのも皮肉です。

 

何よりもこの「たるんだ」姿は美しいのか? という問いかけが伝わってくるようです。

 

 

 

「Kalavinka #1 Twinkle Star」

メジャーがリボンのようになっています。そして謎のカプセルや錠剤が散らばっています。会場のTAV GALLERYのアシスタントディレクターであり、2021年の高橋さんの個展「no exit」のレビューを『アートコレクターズ』に寄稿されている美術批評家の飯盛希さんが在廊されていて、このカプセルや錠剤の意味を伺うことが出来ました。

 

「Kalavinka #1 Twinkle Star」(部分拡大)

これ、健康な人が分かってしまったら逆にダメなタイプのものなのですが、本来は糖尿病の患者さん用の薬であるにもかかわらず「痩せ薬」として出回っているものなんだとか、、、。「痩せ薬」で検索するとバッチリ出てきました。

 

「Kalavinka #1 Twinkle Star」(部分拡大)

ダイエットがテーマなのでメジャーが描かれているとして、「雲」は何でしょう。「痩せ薬」を服用するとぼーっとするらしく、朦朧とした意識を表しているそうです。所々見られる「星」やタイトルの「Twinkle Star」はひょっとしてアニメ表現によく見られる気絶した時の星が回っているアレ、眼閃 (がんせん) を表している?


 

眼閃かどうかはともかく、希望にキラめく星が見えているようですが、中央は空っぽで、たるんで吊るされたスカーフは、脂肪がなくなった後の、皮膚だけがたるんだ様子に見えます。

 

この様子は果たして美しいのか? (2回目)

 

 

 

「Kalavinka #3 tool」

 

「Kalavinka #3 tool」(部分拡大)

これは、自分で分かってしまったんですよ、、、(恥ずかしい、、、)。ビンに「ボトックス」って書いてあるし。いや、「ハイコンテクスト」が分かる鑑賞者の方が良しとされるような美術鑑賞の場において、分かったほうがやばい、とか、恥ずかしい、とか、かえって新しい。

ボトックスはボツリヌス菌の筋弛緩作用を利用して、小顔などを目的に部分注射されるものですね、はい。

 

「Kalavinka #3 tool」(部分拡大)

となるとこの器具類は美容整形に使われるアイテムです。背景の赤い色は鮮血、二重螺旋になっているロープは遺伝子や囚われている様子を暗示しているのでしょうか。そして絡まって広がる白い糸のようなものは、縫合用の糸でしょう。手鏡は「なぜかどこの美容整形クリニックでも使用している特徴的な手鏡」とのことで、それを聞いて一人爆笑してしまいました。一部の方々、共感してください、、、。いや本当、意味が分かったのに誇らしい気持ちになれないのはなぜなのか。


 

言い訳させていただきますが、私は何も日常的に美容整形をしているとかそういうことではなく、それでもYouTubeやインスタグラムなどから得られる美容整形の情報に全く関心がないわけではないのです。

 

冒頭からスカーフの「たるみ」にフォーカスして、この展示の仕方はわざとであるとか、この状態は美しいと呼べるのかと問いかけている、などと書いてきましたが、それが「美しくない」と分かっているからこそ、私だって「糸リフト」したいんですよ! (「糸リフト」が分からない方は検索してください。アート鑑賞はハイコンテクスト!)

 

私個人の欲望の話は置いておいて、と続けたいところですが、それを置いておけるのかというと、これがそうでもなくて、今日に蔓延る「ルッキズム」の問題は自分事なんだという現実を突きつけられた気がします。スカーフに描かれた作品が好きという建前のもと、どちらかというとエルメスのブランドのほうを飾りたがる人をどこかで冷笑出来るんでしょうか?

 

 

スカーフの作品群は鑑賞者への問いかけとしてこの「ルッキズム」と、その周辺としての「ブランド至上主義」ということの2つが挙げられていると思います。では「ルッキズム」と「ブランド至上主義」との関係とはどういうものでしょう。

 

ルッキズム:

ルッキズム(lookism)とは、人を容姿の美醜によって評価し、身体的魅力に富む人(美男美女)とそうでない人を差別して扱う、という考え方(ステレオタイプ)を意味する表現。「外見至上主義」とも訳される。

(Weblio 辞書 実用日本語表現辞典 より)

 

 

〇〇至上主義という点で共通点が出てきました。

 

 

見た目を良くしようと努めること、ハイブランドのような質の良い物を持つこと、そのこと自体について、私は否定したくありません。ありのままでいてもOKな人は一部存在するかと思いますが、やはり稀な存在ですし、今の時代は男女関係なく、理想の自分であろうと努力する人は尊敬します。そして、自分自身としても努力し続けたい部分です。その「理想の自分」像に大きな比重を占めるのが「外見」であり、「身につけるもの」や「持ち物」になってきます。もちろんそれ以外の、物事に対する考え方や、学びや趣味の部分で自分自身をデザインすることの方が本質ですが、いわゆるそれらの「内面 = 深く知らなければ分からない部分」というのを会った一瞬でも何となく分かってもらおうとしたコミュニケーションスキルの一つが、その人の「外見」になると思っています。

 

そういう考えを持っている私でも、「ルッキズム」「ブランド至上主義」となると何か引っかかるものがあり、ちょっと気持ち悪い、と思ってしまいます。その嫌悪感の正体は、先ほどの共通点「〇〇至上主義」という部分にあるのかも知れません。

 

「〇〇至上主義」には「〇〇であるならば全て良し」というような意味を含んでいるように感じるのです。言わば「思考停止状態」が気持ち悪いと思うことの正体です。

 

エルメスのスカーフにしても、テクニカルイラストレーション的な技術が用いられていたり、ブランドの過去の商品や歴史的なモチーフが散りばめられているなどしていて、その上で巻いた時に美しくなるような工夫もされている、すばらしい「作品」であると思います。ただ、それらがもし、「エルメスのスカーフ」でなく、パネルにプリントされたアート作品として、エルメスの名前を出さずに販売したらどうなのか、というところが気になるのです。飾ろうとしたのは作品なのか、エルメスなのか。

 

思考停止が気持ち悪いのであれば、思考をしよう、自分の頭で。アートの鑑賞においても「正解を知ること」が良いわけではなく「考えること」が重要なのだ!

 

 

ということで、他の作品は特に解説を求めず、何を訴えているのか、考えてみました。

 

 

 

「Kalavinka」

 

「Kalavinka」(部分拡大)

「展覧会タイトルの「Kalavinka」(カラヴィンカ)は、梵語で「美しい声」を意味し、仏教における極楽浄土に住む半人半鳥の生物「迦陵頻伽」(かりょうびんが)に由来します。(TAV GALLERY 展覧会リリースより抜粋)」

下半身が鳥、上半身が「平均的ないし標準的な身体として偶像化されているトルソ(TAV GALLERY 展覧会リリースより抜粋)」になっています。

欲望の業火に焼かれたメジャーと、背景には朦朧とした意識を表す雲。

 

「Kalavinka」(部分拡大)

隅に描かれたハンドサインはOKサインに見えます。一体誰からOKをもらっているのだろうか? それとも「お金」を意味するハンドサインでしょうか? 美しさの追求にはお金がかかる、と示されている?

美しい声を持つ「迦陵頻伽」は想像上の生き物です。理想としながらも、想像上のものであり続けている。実在しないゴールを目指すような、飽くなき追求という「業」の深さを感じます。

ハンドサインはお釈迦様が弟子に説法をする時の「説法印」の右手にも見えてきました。


 

「drawing」

この作品への第一印象は「傷口のようだ」です。そしてずっと見ているとうめいている顔のようにも見えてきます。肌色に近い麻布と血のような赤い糸では痛々しさを感じてしまう。刺繍枠が痛い部分をクローズアップしているようにも見えます。

 

「標本:grobe」

この、手にピタッとフィットするタイプの手袋は、医療用でしょうか? 美容整形の現場を想起させます。また、一般の人でも、髪を染める時に手や爪に染料が付かないようにするために使用したり、ネイルをした手で炊事をする時に使用したり、そんなイメージがあります。作品の正面に立つと鑑賞者自身が手袋越しにゆがんで映るので、上記のような「美を追求した姿」の結果が映る、という仕組み?


 

「標本:環指」

環指とは薬指のことです。エンゲージリングや結婚指輪をはめるとされる、あの指ですね。高橋さんのインスタグラムで「カワイイは病気」というタイトルのたくさんの指を見ることが出来ます。それらは痛々しいような見た目の指で、どこら辺にカワイイを感じ取れば良いのか? 一時期よくきいた「カワイイは正義」「カワイイはつくれる」というキャッチコピーを皮肉ったものであると推察します。

別作家の作品の話になりますが、森村泰昌さんの「スローターキャビネットⅡ」(1995年) という作品は、ベトナム戦争時の警察がベトコン兵を射殺する瞬間を捉えた報道写真を元ネタに、御堂筋を背景に森村さんが演じて再現したその報道写真と、仏壇と、その中に切断された指のオブジェが入っているという作品です。写真には、引き金をひく加害者、殺される被害者、その様子を見ながら通り過ぎる傍観者、全く気づかない無関心者が登場し、誰でもその立場になれることが表現されています。仏壇の中の指が、虐殺の凄惨さ表しているように思いました。

この高橋さんの作品は、「カワイイは正義」「カワイイはつくれる」とされた、現代の争いの凄惨さを表現しているようです。

 

「標本:腸 (はらわた) 」

繊細で美しいレース生地が、赤くてキラキラした、少し固そうな糸で補修されています。一つ一つ結び目を作って繕っている「結節縫合」ですね。傷口を丁寧に治したいということのようですが結構ツレてます。虫ピンで留められているのも標本らしく、見せることを目的にしているようにも思えます。「はらわた」と読む時、こころ、性根、胸中、物ごとの神髄、すばらしい様子、などの意味があります (参照:コトバンク 精選版 日本国語大辞典「腸」の解説) 。美を追求していく過程で心に受けた傷跡、という風にも見えます。


 

 

ここで「見せる」「見られる」ということも考えてみたいと思います。本展も「スカーフやネックレスなどの首飾り」という、顔に近い体の正面を飾る頸飾から着想を得ているということなので、「見せる」「見られる」ということは大いに関係があると思います。

 

 

標本:

物品の形状、性質などを示すために、その実物に似せて作ったもの。また、その実物の一部。見本となるもの。ひな型。転じて、代表的なもの。まさにそれらしいもの。

(コトバンク 精選版 日本国語大辞典「標本」の解説)

 

 

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壁飾りとしてのスカーフは、鹿頭の剥製に代表される「ハンティング・トロフィー」にも似ています。本来であれば首に巻きつけて使用するはずのスカーフが、広げられた状態で吊り下げられている光景は、見せしめに磔にされた晒し者、あるいは、切り開かれて吊されている屠殺された牛の姿を想わせ、凄惨に映るかもしれません。

 

(TAV GALLERY 展覧会リリースより 抜粋)

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美術作品は「見せる」ことで成立します。作品は作者の意図するものや考え、訴えたいものの発露で、それを「見せている」と考えられます。

 

「ルッキズム」や「ブランド」も見せることで成立するものであり、「美」や「財力」「社会的なステータス」を自身の考えで見せていると捉えれば、差はないようにも思えます。嫌悪感を感じてしまうとすれば、それはおそらく「思考停止」が潜んでいるからではないか、ということを書きました。

 

 

しかし「思考停止」の危険は誰にでも起こり得ます。その時、その時代の「当たり前」や「マナー」なんて全然ちがうもので、今は「医療用の薬をダイエットに使うなんてやり過ぎでは?」と思ったとしても、遠くない未来に、その程度のことくらいならそうしてでも「見た目」がスリムであることが社会に受け入れられる条件だ、という価値観になる可能性も全くなくはないです。そういう状況になった時、「みんなやっているから」「常識だから」と思考停止で受け入れてしまわないと言えるのか。美容整形なんて考えられない、と豪語するような、元から美しく生まれた人がいたとして (そういう環境で育ってしまった人こそある意味で見た目による恩恵が受けられなくなることに恐怖して) 、老いという自然現象からは逃れられず、皺取りたるみ取りという整形に手を出すことは大いにあり得ることです。

 

そういう状況に置かれた時には自分の頭で思考することが唯一の救いであると、本展を鑑賞して、私はそういう結論に至りました。私が考えて、望んで自分自身の見た目に責任を持つこと。私が考えた末に「エルメスを飾る」のも良いし「三段腹のままでいること」も良い。周りが良いというからではない、自分が良いと思うからだ、と言えるかどうか。飲んでいる薬を堂々と「見せられる」のであれば、それは良いのではないか。整形の跡であろうとも「見せる」ことが出来るのであれば、それは良いのではないか。

 

 

「見せる」を自信を持って行おうとすること、それはしかし「見られる」恐怖の裏返しであるのかも知れません。

 

 

「my mirror, in case of S」

こちらの作品の写真ですが、背景に「見られることを想定していないもの」を色々写してしまったので、私が勝手に「ぼかし」を加えました。ぼやけて詳細が見えなく出来るって、最高か。

この鏡も曇っていて、ありのままの私を詳細に写しません。最高か。

視界から自分が消えた時 ≒ 「外から見られる自分」という意識が薄れた時、自分の考えがやっと内側に向かう気がします。


 

 

以上のように、どれだけ言葉を並べたところで、「見た目」の美しさや「ブランド」のネームバリューには抗えず「見られる」現実は存在しています。なかなかに悲惨な争いの只中にいるというのが真実かも知れません。

 

そういう現実があるのを本展で再認識した結果、私も「糸リフト」したら見える世界が変わるかしら? なーんて思うのは、やめました。自分で考えた結果、頭皮マッサージとか運動とか、そういうもので健康体になることを目指そうかな、、、大変だけど。

 

 

感じ方や考えも人それぞれです。「思考停止」ではいられない展示と思います。ぜひ足を運んでみてください。

 

 

 

展示風景写真:高橋鮎子 個展「Kalavinka」


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