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感想 新井碧 個展「まばたきのシノニム」

 

新井碧 個展「まばたきのシノニム」

 

 

会 期:2022年11月3日(木) - 2022年11月20日(日)

時 間:木金 13時-19時  土日祝 12時-18時

休 廊:月火水

場 所:biscuit gallery 1階

展覧会URL:

https://biscuitgallery.com/solosolosolo-vol3/

 


 

本展は biscuit gallery さんのトリプル個展「SOLO SOLO SOLO vol.3」で開催された 3名の作家による個展の感想記事の1つです。それぞれは独立した個展なので、別記事になっています。

 

参考動画:アートが生まれる『場』に出会う【OPEN THE DOOR】新井碧・南谷理加・西村昂祐

 

 

 

新井碧さんは1992年生まれ、東京造形大学卒業、京都芸術大学修士課程修了。ターナーアワード2020入選。病弱で入退院を繰り返していたという子供時代の経験から、身体性ということを軸に、ストローク、アウトライン、無意識的に引かれる線、余白等を、感情や人体のノイズが反映されやすい手法として扱い、「痕跡を残す」というコンセプトで作品制作をされています。

 

例えば、人間とコンピュータの違いとして「身体」を持っている、持っていない、ということが挙げられると思いますが、この「身体」を持っていることで人間には限界が備わっているのであり (同時に別の場所にいられないとか、眠らずに稼働出来ないとか、単純に手が届かないとか) 、この身体の有限性ということが、絵画を描くという行為では如実に現れるものの一つであると思っています。筆跡が微塵もない描画面を制作出来ない ( デジタルなら可能 )というようなことです。

 

新井さんはこの身体の有限性ということを個人的なレベルから他者も包む普遍的なテーマへと拡大していて、「共生の時代であるからこそ生命の有限性について思考する」としています。この「共生」ということについては、アート専門番組【MEET YOUR ART】でのインタビューにて

 

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「共生の時代だからこそ」っていうのをちょっと読んでいただいたんですけど

今ってわりとその多様性を重んじる

(中略)

歴史って強い人だけが生き残って紡がれていくっていう特徴があると思うんですけど

今って私みたいな病弱な人間も二十歳まで生き残れる

平安時代とかだったら、平均寿命がおそらく15歳とかで、それって

出生したての赤ちゃんが亡くなることが多かったから、平均するとそのぐらいになるって言うんですけど

私がたぶん同じ持病を持って、当時産まれてたら間違いなく亡くなっていた

弱者側の人間がここまで生き残れるって医療とか、科学の発達のおかげだと思っていて

アップデートされていく時代だと思うんですけど そういう時代だからこそ

自分自身の時間と向き合うっとことは大事だと思っていて

自分自身と向き合うってことは、他者と向き合うことと対立しないと思っていて

自分自身と向き合うイコール社会や他者と向き合う

(後略)

 

アート専門番組【MEET YOUR ART】【PICK UP】新井碧『MEET YOUR ART FESTIVALにて作品展示・販売!』(4:26〜) より抜粋

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と答えられています。

 

 

 

 

作品を拝見すると、確かに「身体の痕跡」が色濃く表現されていました。

 

筆跡はどれも勢いを感じるのに、不思議と「静」「動」という違いを感じます。速度や画面の中で流れる時間の差があるような気がします。

 



例えば「静」を感じる画面。

 

 

「3つの桃」

タイトルが「3つの桃」なので静物画だ! というのではなくて、タイトルを見ずに鑑賞した時から何かが置いてあるなというような印象でした。タイトルを見て今一度鑑賞すると、桃の実体がより具体的に掴めるようでもあり、残像を見ているようでもあり、脳内の記憶の中の一瞬のようでもあります。

 

 

 

「silhouette #27」

花が描かれている、と思いました。違うかもしれないし、そうかも知れないけどそこは重要ではないとして、何か花の匂いのような芳醇な香りが漂ってくるようです。美しくて、妖しくて、むせかえるような感じです。身体性が重要な要素であるからなのか、視覚以外の感覚が刺激されている?

 

 

 

「silhouette #SUIREN」

こちらもタイトルを見る前の鑑賞の時点で「睡蓮が描いてある!」と気づきました。

 

「silhouette #SUIREN」(部分拡大)

睡蓮、描かれています。睡蓮といえばモネの作品を想起します。モネは、白内障に悩まされ、手術を受ける前の晩年の作品は粗い筆致で黄色が強く表現されたものが多いとされています。まさに、作品と作家の身体は切っても切れない関係だということを証明するようなエピソードです。そして、現実はどうであるか、ということより作家の目を通して「こう見えている」ということを鑑賞者が追体験できる例でもあります。

本作品「silhouette #SUIREN」は、写真のブレのような、まばたきをした際の睫毛の影をも捉えているような、一瞬の印象の強さを表しているように感じます。


 

 

 

「silhouette #Color Fields」

本作品のタイトル「#Color Fields」の部分ですが、カラーフィールド・ペインティングというと、1950年代後半から60年代にかけてアメリカ合衆国を中心に発展した抽象絵画の一動向で、色彩 (カラー) を用いて、鑑賞者が包み込まれていると錯覚するような場 (フィールド) を作り出すことを念頭に置いていました。これを画面から身体への干渉、と考えると作品は鑑賞者の身体に影響するものであると言えます。新井さんが言っていた「自分自身と向き合うイコール社会や他者と向き合う」ということにも繋がってくると思いますが、作家である新井さんの身体を使って描かれた作品とそれを鑑賞する側の身体は無関係ではいられない、ということが言えそうです。

 

作品鑑賞はコミュニケーションだ、と言った時、作家の表現したいものを受け取るというような、脳内で完結するものを思い浮かべていましたが、身体や感覚といった実感を伴うものとしてのコミュニケーションである、ということに気付かされます。

 

本作「silhouette #Color Fields」は、何かの静物が描かれている、というよりはどこかの風景を描いたものであるような、鑑賞者自身が入り込んでいける空間であるように感じます。

 

 

 

 

そして私が「動」を感じた作品は以下の2作品です。

 

「silhouette #Nine Discourses on Commodus」

タイトルは一旦後回しにして、この画面を動的に感じたのですがどうでしょうか?

 

「silhouette #Nine Discourses on Commodus」(部分拡大)

ぴゅるぴゅる〜という擬音が当てはまりそうな何か。

 

「silhouette #Nine Discourses on Commodus」(部分拡大)

ここが始まりか、終わりか。


 

画面全体を使ったアクロバティックな動きを連想したのですが、タイトルを読むと「#Nine Discourses on Commodus」と副題がついています。"Nine Discourses on Commodus" はサイ・トゥオンブリーによる1963年の作品です。トゥオンブリーの9枚からなる "Nine Discourses on Commodus" は、キューバ・ミサイル危機とジョン・F・ケネディ大統領の暗殺といった当時の暗い空気を反映し、灰色の背景に散らばった内蔵のように絵の具が叩きつけられた表現になっています。Commodus とは、暗愚の君主として知られるローマ皇帝コンモドゥスのことで、その残虐さ、狂気、最終的に絞殺された運命などを表しているとされます。画像はぜひ検索してみてください。

 

新井さんの本作品は、件のトゥオンブリー作品の破裂した内蔵のような部分を思わせます。

 

またトゥオンブリーの作品は一見落書きのように見えたり、部屋を暗くして制作したというエピソードからも、視覚情報そのものより感覚で感じることを鑑賞者に促しているとも受け取れます。美術家の大山エンリコイサムさんはトゥオンブリーの作品について、聴覚映像として喚起力を有するもの、と言及されています。→参考ページ:匿名のアコースティック・イメージ──「サイ トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡」展に寄せて

 

以上のことから、この「silhouette #Nine Discourses on Commodus」は身体性というテーマをさらに突き詰めた作品と言えそうです。

 

第一印象で私が感じた動的なものや、ぴゅるぴゅる〜という音は、視覚というより、風を感じるような触覚、音を感じる聴覚が刺激された結果かも知れません。

 

 

 

「silhouette #まばたきのシノニム」

 

「silhouette #まばたきのシノニム」(部分拡大)

私見ですが、下から螺旋状に渦を巻いて上に上がっていくような動きを感じました。

 

「silhouette #まばたきのシノニム」(部分拡大)

何かが画面上部で解放されていくような、ダイナミズムを感じます。


 

本展の展覧会タイトルにもなっている「まばたきのシノニム」ですが、シノニムとは同義語、類義語のことです。「まばたき」と同じことを表現しているよ、ということと解釈しました。まばたきの役割として、涙で角膜を洗う、乾燥から守るということもありますが、ズレた焦点を修正してピントを合わせるという役割もあります。

 

鑑賞というと「見ること = 視覚」のみを使ってしまいがちですが、鑑賞とは身体全体の感覚を使って行うことであるよ、と過去の作家たちも訴えていました。カラーフィールド・ペインティングの作家然り、サイ・トゥオンブリー然り。

 

そのことを再度提示しながら、コミュニケーションツールとしての作品ということに焦点を当てている作品群と思います。視覚以外もフルに使った時、各個人の感想がどうなっているのか気になるところです。また会場には新井さんによる本展に寄せたエッセイが掲示されています。身体性に着目した時、鑑賞を可能にするのは飽くまでも身体による物理的な境界であり、自己と他者は混ざり得ないことに意識的になります。そしてそれが、現代で言われている多様性に即した時「他者を思いやる」ということに繋がるのではないかと思いました。貴方と私は本当の意味では同じように感じることは出来ないから、思いやる。先に挙げたインタビューで、幼少期に病弱だった自身のことを「弱者側の人間」と表現していることや、会場掲載のエッセイの中でも自身を、日本人、女性、虚弱体質、と列挙していることから感じられる新井さんの思いがあります。

 

 

掲載してないのですが事務所にも作品が展示されています。ぜひ、足を運んでみてください。

 

 

 

展示風景画像:新井碧 個展「まばたきのシノニム」


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