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【おすすめ BOOK】明るい部屋 写真についての覚書

 

明るい部屋

写真についての覚書

 

ロラン・バルト

花輪光 = 訳

みすず書房

1985年


タイトルについて

 

著者のロラン・バルト (1915-1980) はフランスの批評家・思想家。64歳で不幸にも交通事故により死去する前に書いた遺作がこの『明るい部屋』です。タイトルの『明るい部屋』という訳については賛否あるようですが (参考:東京オルタナ写真部 ロラン・バルト『明るい部屋』日本語訳の問題点 そもそも『明るい部屋』という翻訳タイトルはありなのか?) 、英訳のタイトルは『camera lucida』カメラ・ルシダ となっています。

 

カメラ・ルシダ (ラテン語で「照らされた部屋」の意) とは、画家がスケッチをする際の補助器具として先行して用いられていたカメラ・オブスクラ (ラテン語で「暗い部屋」の意) の を意識して命名された、描画用補助器具のことです。カメラ・オブスクラは、原始的なものはその名の通り、暗い大きな箱のような部屋に小さい穴をあけ反対側の面に映った像を描き写す、というピンホールカメラの原理を用いた装置でした。ヨハネス・フェルメールもカメラ・オブスクラを用いて下絵を制作していたと言われています。反対に、カメラ・ルシダには実は「部屋」と呼べるような構造は無く、45°に傾けた半透明の鏡 (マジックミラー) を通して紙の表面を見下ろすと、反射した正面の風景と真下の紙とが目の前で重ね合わさって見え、それをそのまま紙の上にトレース出来るという仕組みです。

 

本書ではこのカメラ・ルシダの機能に則したタイトル回収の章が後半にあり、「なぜこのタイトルなのか」は読み進めると判明します。

 

カメラ・オブスクラの原理

確かに、囲まれた暗い部屋とも呼べる部分があります。

 

カメラ・ルシダの原理

まぁ、部屋っぽい部分は無いかな、、、。


今なお興味深い議論を喚び起こす本書

 

『明るい部屋』の原著が出版されたのは1980年ですが、本書は今もなお、写真という媒体が語られる際に引き合いに出されることが多い書籍です。例えば、マイケル・フリードは 2005年 Critical Inquiry 春号に "Barthes’s Punctum" (邦訳 : ロラン・バルトのプンクトゥム) という論文を寄せています。2022年9月-10月に開催された髙橋恭司さんの個展「Ghost」の展覧会概要にも、この『明るい部屋』からの引用がありました (参考:LOKO GALLERY 髙橋恭司「Ghost」展覧会概要) 。

 

議論されたり引用されたりすることには色々な理由が考えられますが、本書は論理的な展開に終始する本というよりは、バルトの私的な感覚の部分から正直に、かつ、真摯に探究を試みた「写真にまつわる概念」についての本であるため、バルト本人が望んだように、より「写真の本質」に迫っているからではないか、と推測します。元より「芸術の何が芸術であるか」というようなことはハッキリと述べることが出来ないものであるからこそ、逆説的ではありますが、言葉を尽くして本質に迫ろうとすればより多くの議論を引き起こす可能性が生まれます。

 

こと写真に関しては、Photoshop から AI へと新しい技術の発展に伴い媒体としての特異性が目まぐるしく変わっており、「本質」 も大きく変化していると考えられます。以前ではどうしても「写ってしまった」ものも、例えば Google Pixel の消しゴムマジック機能等で容易に消去出来るようになり、「写真そのもの」と認識できるようなレベルのものが何もないところから生成出来るようにもなってしまっています (参考:NHK 2023年4月14日 偽画像・偽情報にどう挑む フェイク対策の最前線) 。今や写真という媒体の特異性は、絵画の持つ特異性と限りなく近くなってしまったと言えます。

 

 

 

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本質を目指してよじのぼるのだが、それを目にすることもなく転落し、また最初からやりなおすのである。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』27 再認・認識すること より抜粋)

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「ストゥディウム」と「プンクトゥム」

 

初めに強烈に興味を惹かれる概念は、なんと言っても [ プンクトゥム ] です。言いたい響きです、プンクトゥム。

 

プンクトゥムとは何か。これは、バルトが対義語として挙げているストゥディウムから考えるとストンと理解が出来る概念です。[ ストゥディウム ] studium は「勉学 study」のルーツになったラテン語で、バルトはこのストゥディウムについて次のように述べます。

 

 

 

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フランス語には、この種の人間的関心を簡潔に表現する語が見当らない。しかし、ラテン語にはそれがある、と私は思う。それは、ストゥディウム (studium) という語である。この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム (一般的関心) による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである (ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという 共示的意味 コノテーション が含まれているのである)。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』10「ストゥディウム」と「プンクトゥム」 より抜粋)

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ここでストゥディウムについて明らかにされているのは、何か物事を掘り下げて理解する時に不可欠な「一般的」で「共通」の「教養」から喚び起こされる「人間的関心」を指している、ということです。ここで言う「教養」は、学問的な事例に限ったことではなく、例えば、2023年4月現在において「SHO TIME」という語を見れば、SHOW TIME のWが抜け落ちたミススペリングではなく、メジャーリーガーの大谷翔平選手の「翔」に意味をかけた「大谷選手の見せ場」という意味だな、と多くの人が理解出来る、なども含まれると思います。そのような共通の認識を通して喚起される興味がストゥディウムです。アートを余す所なく楽しむための前提となる知識、という場合もこのストゥディウムの話に該当すると考えます。

 

では [ プンクトゥム ] punctum は何かというと、こちらはラテン語で「刺し傷」を意味します。ストゥディウムが鑑賞者から写真に向かう興味であったのに対し、プンクトゥムは意図せず写真のほうから矢のように鑑賞者を刺してくるものである、とバルトは言います。

 

 

 

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ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた 標識 しるし を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。問題の 標識 しるし や傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム (punctum) と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり——しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、 私を突き刺す 、、、、、、 (ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける) 偶然なのである。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』10「ストゥディウム」と「プンクトゥム」 より抜粋)

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先ほどのストゥディウムが共通の教養を元にした興味を喚び起こすものであるならば、プンクトゥムはそういうことは抜きにして私的な要因のために予期せず刺さるもの、と捉えることが出来ます。

 

バルトの主張が興味深いのはこのプンクトゥムが存在しているのは [ 意図的なものではない ] 部分であると言っているところです ([ ]内 ロラン・バルト『明るい部屋』20 無意志的特徴 より) 。バルトによれば、プンクトゥムは、被写体が「刺すこと」を意識して いない 、、、 だけでなく、撮影者も「刺すこと」を意図して撮影してはいない 、、、 部分に生じます。

 

 

 

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しかしブルース・ジルデンが一人の修道女と女装した男たちを並べて撮っても (ニューオリンズ、一九七三年) 、その (押しつけがましい、とまでは言わないまでも) わざとらしいコントラストは、私に対して何の効果もおよぼさない (それどころか、いらだちさえ感じさせる) 。それゆえ、私の関心を引く細部は、意図的なものではない。

(中略)

「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ。そしてとりわけ「写真家」は、オルフェウスと同じように、自分が写してきて見せるものを振りかえって見てはならないのだ!

 

 (ロラン・バルト『明るい部屋』20 無意志的特徴 より抜粋)

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意図的ではない部分の具体例として、例えば、ハンガリー出身の写真家アンドレ・ケルテスが撮影した、[ 子供に手を引かれた盲目のジプシーのヴァイオリン弾き ] の写真において、バルトを刺激するのは [ 土が踏み固められた道 ] だと言います ([ ]内 ロラン・バルト『明るい部屋』19「プンクトゥム」——部分的特徴 より) 

 

 

 

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この道の土の 肌理 きめ は中部ヨーロッパにいるという実感を私に与える。私は指向対象 (被写体) を知覚する (ここでは、写真は真にそれ自身を超えてしまっている。これこそ写真の術を証明する唯一の証拠ではなかろうか? つまり、 媒体 、、 としての自己を空無化し、記号であることをやめ、ものそのものとなること) 。私は、かつてハンガリーとルーマニアに旅行したとき横切った村村を、いまふたたび全身で感じ取る。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』19「プンクトゥム」——部分的特徴 より抜粋)

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おそらく撮影者であるケルテスの主題は [ 土が踏み固められた道 ] にはなかったと思われますが、これが意図せず必然的に写っていることによって、バルトの個人的な経験 [ かつてハンガリーとルーマニアに旅行した ] という痛点を刺激しました。おそらく、その時の土の匂いも思い起こされたことでしょう。その時、この写真に写った「道」は、「道」という記号であることをやめ、匂いや感覚といった五感を持って感じることが出来る [ ものそのもの ] になりました。

 

 

この話は難しいことを論じているようでいて、言われてみれば誰にも心当たりのある鑑賞経験のことを言っていると思います。鑑賞の対象は写真だけではないかも知れません。ストゥディウムは、〇〇という主題のためにこの作品は素晴らしい、というような評価を下す場合に当てはまるとして、それは Like の好きであると言えます、それと対照的に、作品の作者にさえも理解されないだろう些細な部分に心を奪われてしまって、ある作品を Love、すなわち、愛してしまうこともあったりします。これがプンクトゥムです。

 

盲目のジプシーのヴァイオリン弾きの写真は [ かつてハンガリーとルーマニアに旅行した ] というバルトの個人的な経験が明示されていますが、本書に載っているその他の、バルトがプンクトゥムによって突き刺された写真の例には明確な過去の経験が不明のものもあります。記憶にあるかないかも曖昧な、それこそ鑑賞者の魂だけが記憶しているかも知れない痛点に「個人的に刺さる」という感覚は (むしろこの「個人的に刺さる」という言い回し自体が今現在においても自然に通じることからも窺えるように) 時代を超えて広く共感出来るものです。

 

 

 

、、、しかし、「プンクトゥム、納得!」と思いながら読み進めていくと、いきなり「今まで語ってきたことは取り消します」という宣言がなされます。この本、すごいな、、、。

 

 

 

前半部分取り消しの真意

 

前半となる第一部で [ プンクトゥム ] というキラーワードを出され、私はすっかり納得し心地よく読み進めていたところ、いきなりの取り消し宣言、、、。なぜバルトは前半部分を取り消したかというと、そのやり方では自身の欲望がどう働くかを知ることは出来るが「写真」というものの本性を発見したわけではなかった、からです。

 

 

 

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私は自分の快楽が不完全な媒介であるということ、快楽主義的な企図に還元された主観性は普遍的なものを認識しえないということを、認めざるをえなかった。私は自分自身のなかにさらに深く降りていって、「写真」の明証を見出さなければならなかった。その明証とは、写真を眺める者ならば誰にでも見てとれるものであり、しかも彼の目から見て、写真を他のあらゆる映像から区別するものである。私はこれまで述べてきたことを取り消さなければならなかった。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』24 前言取り消し より抜粋)

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確かに、前述の写真から [ 土が踏み固められた道 ] を見出して、中部ヨーロッパにいるという実感を得る、というのは、 [ かつてハンガリーとルーマニアに旅行した ] バルトだからこそ可能だったことであり、バルトに起きたプンクトゥムの感覚には共感しますが、具体的に示された「道そのもの」を感じられるか、ということに関しては、万人に通用するものではない、個人的な「感想」の範疇だと思います。写真というものの本性はもっと普遍性のある概念である、ということでしょう。

 

誰から見ても明らかで、そしてそれは [ 他のあらゆる映像から区別するもの ] であるという [「写真」の明証 ] を見出すために、新たな話が始まります。

 

 

 

載っていない「温室の写真」

 

そして第二部には、バルトの亡くなった母の写真にまつわるエピソードや《それは、、、かつて、、、あった、、、》などのワードが出現し、かつ自叙伝的雰囲気も醸し出されます。本書を何度も読んで検証したり議論したりしたくなるのが分かる気がします。読了後、内容全てをハッキリと理解出来ているとは言えなくとも、述べられていることのどこかに「刺されて」、この本を何度も開きたくなるのです。この本自体にプンクトゥムが潜んでいる。

 

そんな 「『明るい部屋』自体に潜むプンクトゥム」の例として、第二部の軸となる [「温室の写真」] というのがあります。

 

亡くなった母を写真によって《ふたたび見出そう》としたわけではなかったバルトですが、写真の整理をしていると、どうにも「母そのもの」と言える写真が見つからないことに気づきます。第一部では、子供に手を引かれた盲目のジプシーのヴァイオリン弾きの写真において、踏み固められた道を「道そのもの」として認識することが出来ていたバルトなのに、です。このことにバルト自身もショックを受けているようで、[ 私は母を、本質によってではなく、差異によって再認・認識していたのである ] とか [ ある写真を見て、《母 そっくり 、、、、 だ!》と言うときのほうが、他の写真を見て、《まるで似ていない》と言う場合よりも、なおいっそう辛かった。 そっくり 、、、、 であるというのは、愛にとって残酷な制度であり、しかもそれが、人を裏切る夢の定めなのである (後略) ] なんて言っています。確かに「そっくりだ!」と言うことは「そのものではない」と言っているのと同じことですね ([ ]内 ロラン・バルト『明るい部屋』27 再認・認識すること より) 。

 

ですがついにある写真が見つかります。それが「温室の写真」です。これがなんと、バルトの母が5歳の時の写真だと言うのです。もちろんバルトは生まれていないので、その当時の母を見たことはありません。その後の色々な選択肢の末にバルトが生まれない世界線に向かう可能性も十分にあります。にもかかわらず、バルトは「母そのもの」を見出します。

 

 

 

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(前略) しかしこの写真には、母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれている、ということは確かだった。この写真とは逆に、そうした属性の一部が欠けるかまたは変質すると、母のほかの写真のようになってしまって、私を満足させることができなかったのだ。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』28「温室の写真」 より抜粋)

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そして、本書は文章内に出現する多くの写真が掲載されているのに対し、この「温室の写真」だけは載っていないのです。

 

 

 

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 (「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心 = 差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』30 アリアドネ より抜粋)

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第一部では具体的な写真 [ 子供に手を引かれた盲目のジプシーのヴァイオリン弾き ] の写真を掲載しその [ 土が踏み固められた道 ] を通してプンクトゥムを論じながらも [ 快楽主義的な企図に還元された主観性は普遍的なものを認識しえない ] と取り消したバルトが、第二部、[「写真」の明証 ] に近づくアリアドネである「温室の写真」を見せない、という面白さ。

 

以下は第一部からの引用ですが、この実践が「温室の写真」でなされていると言えなくもない、と思いました。私たちは「温室の写真」の具体的な全貌を見ていないからこそ、それが本質的にどういうものなのかを、バルトの記述によって把握するのです。

 

 

 

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結局のところ——あるいは、極限においては——写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、または目を閉じてしまうほうがよいのだ。

 (中略)

写真は無言でなければならない (騒々しい写真があるが、私は好きではない) 。これは《慎み》の問題ではなく、音楽の問題である。絶対的な主観性は、ただ沈黙の状態、沈黙の努力によってしか到達されない (目を閉じることは、沈黙のなかで映像に語らせることである) 。写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、《 技巧 、、 》、《 現実 、、 》、《 ルポルタージュ 、、、、、、、 》、《 芸術 、、 》、等々から引き離されたときである。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がってくるようにすること。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』22 事後と沈黙 より抜粋)

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しかし、載っていないということは、この「温室の写真」は実際には存在しない、とする人もいます (参考:Margaret Olin, "Touching Photographs: RolandBarthes' 'Mistaken' Identification," Representation, no. 80 (Fal 2002) :99-118) 。

 

うーん、読み方1つとっても本当に様々な意見がありますね。私は素直に、この「温室の写真」は実在するものとして読んでいます。

 

しかし、写真がないからこそよく見える =「温室の写真」がどんなものか分からないからこそその本質が理解出来る、とした時、個人的には椎名林檎の「ギブス」という曲の歌い出しの部分を思い出しました。著作権の関係でここに歌詞は掲載しませんが、この歌詞に触れた当初、「写真に撮られるとあたしが古くなるから イヤ 」 という内容について、言っていることは何となく理解出来ても感情としては共感出来ないな、と思っていました。写真を撮りたがるのは愛情からくる行為なのでいいじゃん、くらいの考えです。本書『明るい部屋』で、バルトが母の写真を整理しているうち、どうにも「母そのもの」と言える写真が見つからず [ 本質によってではなく、差異によって再認・認識していた ] [ そっくり、、、、であるというのは、愛にとって残酷な制度であり、しかもそれが、人を裏切る夢の定めなのである ] とショックを受けている様子から、前述の歌詞を " ああ、写真に撮られたものと「あたしそのもの」は本質的に違うから イヤ、あたしそのものを見ていて欲しいという女心なのか " と理解しました。まぁ私の理解力が足りないだけで、「ギブス」の発売当初からこの歌詞の意味はちゃんと理解されて世に広まっているのだと思いますが、ということはバルトの論説を知らなくとも " 写真に撮られたものは「そのもの」の本質を全て写し出すとは限らない " と一般的に広く理解されているものだと言えそうです。しかし稀に、写真に撮られたものの中で、「そのもの」となり得るものがあり、それこそが「良い写真」であるとして、「ギブス」の歌詞の中では、現在の「あたし」は「あなた」に非常に近いところにいる存在なので「写真」をイヤがることが出来ますが、その後、たとえ別れなくとも、時間が経ち、今の状況からは別の遠いところに到達した時、その「写真」は "「あたし」の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれているもの " という存在になって「あなた」に再発見される可能性がある、とは言えないのでしょうか? ここからはむしろ、そういう「時間が経ち、今の状況からは別の遠いところに到達した時」を想像したくないから余計に写真に撮られたくない、という解釈が可能です。「写真」は撮られた瞬間から《それは、、、かつて、、、あった、、、》になるのです。椎名林檎さんはバルトの『明るい部屋』を読んでいたのかなぁ。

 

いきなり《それは、、、かつて、、、あった、、、》を出してしまいましたが、このように本書は本当に色々な要素に溢れています。そして《それは、、、かつて、、、あった、、、》についてここでは書かないことにします。《それは、、、かつて、、、あった、、、》は、その意味の通りであり、タイトル回収にも繋がっていく部分でもあり、Photoshop や AI による写真の編集や生成が可能になった現在において変質してしまった要素でもあり、私には簡単にまとめることが出来ないと感じているからです。

 

 

 

タイトル回収

 

タイトル回収するとオタクが歓喜するそうですが (これについては明確な出典はありません。2023年4月現在の日本のTwitterで「タイトル回収 オタク歓喜」と検索してみてもらうしかありません) 、本書もちゃんとタイトル回収されます。

 

以下、多めの引用失礼します。

 

 

 

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それゆえ、私はつぎのおきてに従わなければならない。つまり「写真」は、深く掘り下げたり、突き抜けたりすることができないということ。凪いだ海の表面と同じように、私は目で走査することしかできないのだ。「写真」は、語のあらゆる意味において 平面的 、、、 〔平板、平明、平凡、単調〕である。このことは認めなければならない。「写真」はその技術的起源のゆえに、暗い部屋 (カメラ・オブスクラ) という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろ、カメラ・ルシダ (明るい部屋) を引き合いに出すべきであろう (カメラ・ルシダというのは、「写真」以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことのできる装置であった) 。

(中略)

「写真」が深く掘り下げられないのは、その明白さの力による。映像の場合、対象は一挙に与えられ、それが見えていることは 確実 、、 である——これとは逆に、テクストや、映像以外のものの知覚は、対象を曖昧な、異論の余地あるやり方で私に示すので、私は自分が見ていると思っているものを疑うようになる。映像の知覚のこの確実さは、私が写真を集中的に観察する余裕があるだけに、絶対的である。しかしまたその観察は、いくら長く続けても、私に何も教えはしない。「写真」の確実さは、まさにそうした解釈の停止のうちにある。私は、 それがかつてあった 、、、、、、、、、 ということを確認するだけで精根を使い果たしてしまう。誰であろうと、写真を手にしている者にとっては、それこそが《根源的確信》であり、《原ドクサ》であって、その映像が写真 ではない 、、、、 ということが証明されないかぎり、この確信は何ものによっても突き崩されない。しかしまた、悲しいことに、その確実さに比例して、私はその写真について何も言うことができないのである。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』44 明るい部屋 より抜粋)

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いきなり「それゆえ」で始まりますが、「何ゆえ」かは本書をぜひ読んでください。ここで「明るい部屋」とはこのブログの冒頭でも触れたようにカメラ・ルシダのことであると判明します。カメラ・ルシダの、眼前にある現実をそのまま画用紙に写すことが出来る仕組みになぞらえているのです。「写真」が示すのは、それがかつてあった 、、、、、、、、、 、であり、どれだけ長く観察してもそれ以上のことを突き抜けて感知することは出来ません。そのかわり、それ以上ないくらいの明白さがあります。

 

ただ、現在において言えることは、ここで述べられたことはもはや通用しないということです。デジタル技術の登場により、編集、生成可能となった「写真」は、すでにこの文脈の意味での「写真」ではなくなっています。そこに明白なものはなく、自撮り写真を手軽に「盛る」ことが出来るように、撮影者や編集者の意図がくまなく蔓延っています。絵画と同じく、そこに写っているのは作者の意図、あるいはフィクションと呼べるものです。何も手を加えていない写真だったとしても、少なくとも鑑賞者は「手を加えられた」可能性を考えます。

 

そして、本書はこのタイトル回収章が最終章ではありません。

 

 

 

本書の最終章:最も批判的?

 

本書の最終章は、 [ 飼い馴らされた「写真」] 、となっています。その前の章 [「まなざし」] 、[「狂気」、「憐れみ」] から続く章です (タイトル回収の章とこれらの章の間にはもう一つ、私のプンクトゥムを刺激する [《雰囲気》] という章があります。この章については後ほど) 。

 

 

 

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ところで、まなざしというものは、それが執拗にそそがれるとき (ましてやそれが、写真によって「時間」を超え持続するとき) は必ずや潜在的に狂気を意味する。

(中略)

それが「写真」の《宿命》というものであろう。《十全な真の写真》を見出したと信じさせることによって (といっても、確かにそれは何回に一回あることなのかわからないのだが) 、「写真」は現実 (《それは、、、かつて、、、あった、、、》) と真実 (《 これだ 、、、 !》) との稀有な融合を達成し、事実確認的であると同時に間投詞的なものとなり、感情 (愛、憐憫、喪の悲しみ、衝動、欲望) によって存在が保証されるあの狂気の境に肖像を運び去る。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』46「まなざし」 より抜粋)

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ところで、私が「写真」において措定するのは、単に対象の不在だけではない。それと同時に、それと並んで、その対象が確かに存在していたということ、その対象が写真に写っているその場所にあったということをも措定する。ここにこそ狂気があるのだ。

     

(ロラン・バルト『明るい部屋』47「狂気」、「憐れみ」 より抜粋)

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ここで述べられていることは、主に人物の写真の狂気についてです。[ 現実 (《それは、、、かつて、、、あった、、、》) と真実 (《これだ、、、!》) との稀有な融合 ] であり、対象がすでに [ 不在 ] なのと [ 確かに存在していた ] の両方が揃うところに狂気が存在しています。バルトの母の「温室の写真」のエピソードがこの部分と繋がっているようです。

 

最終章の [ 飼い馴らされた「写真」] では、この狂気をしずめて飼い馴らそうとする社会について語られます。

 

 

 

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社会は「写真」に分別を与え、「写真」を眺める人にむかってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。その目的のために、社会は二つの方法を用いる。

一つは「写真」を芸術に仕立てる方法である、というのも、芸術は決して狂気ではないからである。そこで写真家は、絵画の修辞法やその昇華された提示法を取り入れ、あくまでも芸術家と張り合おうとする。実際、「写真」は芸術となることができる。

(中略)

「写真」に分別を与えるもう一つの方法は、「写真」を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには「写真」の前に他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。

(中略)

われわれは一般的なものとなったある想像物に支配されて生きているのだ。たとえば、アメリカ合衆国では、あらゆるものがイメージに変換される。ただイメージだけが存在し、生産され、消費される。

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』48 飼い馴らされた「写真」 より抜粋)

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狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。

(中略)

つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真の エクスタシー 、、、、、、 と呼ぶことにしたい。

以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。

 

一九七九年四月十五日 - 六月三日

 

(ロラン・バルト『明るい部屋』48 飼い馴らされた「写真」 より抜粋)

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私は飼い馴らされた写真よりも狂気のほうを選びたいのですが (なぜならストゥディウムよりもプンクトゥムのほうが、より作品を愛せるからです) 、それは今日、可能でしょうか?

 

社会が写真を飼い馴らしてしまう方法の1番目は [ 芸術に仕立てる方法 ] ということですが、これはすでになされてしまったように思います。 [ 実際、「写真」は芸術となることができる。] は多くの人に受け入れられる意見でしょう。また、繰り返しになりますが、これを書いている2023年4月現在には、ありとあらゆる写真編集の方法が提供され、AIの技術により何もないところから写真のような画像を得ることが可能になっています。それは絵を描くこととほぼ同義になり、「写真」は油彩や水彩、アクリル絵の具といった描画材の一つになり変わりました。様々な [《 技巧、、 》] を施せる「写真」には、作者の意図を隅々まで張り巡らせることが出来ます。その意図から生み出されるものは本書で言うところのストゥディウムになる可能性のほうが高いでしょう。

 

そしてその行為を仮に「写真で描く」と表現すると、2番目の飼い馴らされる方法にも関係してきます。現代には、この『明るい部屋』が著された当時とは比べ物にならないくらい、写真が溢れています。スマートフォンとSNSの登場により、手軽に撮られ、公開され、大衆化され、その過程で、イメージとして一般化されました。さらにそのイメージに寄せるよう画像を編集していくという文化が生まれています。「映える写真」という表現は「映え」という一般化されたイメージの存在と、それに近づけようという撮影者の意図の存在も示唆しているかのようです。「写真で描く」ことは、「写真」を、バルトが [ 完璧な錯覚として文化的コードに従わせる ] と表現したものに陥らせることを可能にする行為だと言えます。

 

写真を飼い馴らすか否かは、バルトによれば [ それを選ぶのは自分 ] 、すなわち写真を眺める人にも委ねられていたのですが、現代の状況を踏まえると、選べない状況にまで流されてしまったようです。

 

 

 

最近の私自身の関心事として「作者の受肉」という話があるのですが、主に絵画などの作品において、作者が「全知全能の神」として全て意のままに描画するよりも、ある程度不自由な部分を作品内に受け入れることがモダニズムなのではないか、というような話です。

 

仮に「作者の受肉」をモダニズムとした場合、この仮定に「写真」の現在を当てはめると、もともと写真は眼前の現実そのままが写ってしまうということが特異性であり、撮影者は「全知全能の神」として振る舞うことは叶わず、シャッターをいつ切るのか、照明はどうか、などの限られた行為によって「意図」を加えるという「主導権を持てない部分と持てる部分の具合」が (私が思うに) 理想的な媒体でありました。それが画像編集や生成技術の発展によって「作者の意図」が全面に押し出され、モダニズム以前の時代に逆行したような状況に陥っています。それは社会が作品を飼い馴らしてしまう危険を孕んでいるということです。例え、デジタル処理も編集もいっさいしていない写真であっても、鑑賞する側はそう観ることが難しくなっているため、バルトが言うところの [ 写真のエクスタシー、、、、、、 ] は失われた、と言っても過言ではないでしょう。バルトが本書で語っていたこと—— [ プンクトゥム ] [ 狂気 ] 等——は、受け取る鑑賞者側の問題だからです。

 

 

 

写真はどこへ行くのか?

 

私のプンクトゥムが刺激された本書の章に [《雰囲気》]というのがあります。 この章で書かれていることを踏まえて、以前私が当ブログにしたためた髙橋恭司さんの個展「Ghost」の感想の再考をしたいと思います。

 

先ほど、[ プンクトゥム ] [ 狂気 ] 等は受け取る鑑賞者側の問題だと述べました。しかし本書には鑑賞者側ではない問題も言及されています。鑑賞者側ではなく、被写体となる人物側と、それを写した画像の側へ言及しているものが《雰囲気》です。

 

バルトによれば、この《雰囲気》というものは [ 自負しないかぎりでの主体を表わす ] ものであり、[ 生命の価値を神秘的に顔に反映させる精神的なある何ものか ] です ([ ]内 ロラン・バルト『明るい部屋』45《雰囲気》 より) 。

 

これは、ことわざの「三つ子の魂百まで」で言うところの「魂」と同義であるように思います。押井守監督の「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(1995年公開) の「GHOST」とも言い換えることが出来ると思います。

 

実は、本書『明るい部屋』の英語版でも「ghost」という単語は登場し、それは次のように和訳されている箇所です。

 

 

 

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「写真」はこれまで「絵画」の亡霊に悩まされてきたし、いまもなお悩まされている (後略) 

 

 (ロラン・バルト『明るい部屋』13 描くこと より抜粋) 

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上記の、[「絵画」の亡霊 ] という部分が [ the ghost of Painting ] です。そしてさらにバルトは続けます。

 

 

 

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「写真」は「絵画」から生まれてきたかのように、「絵画」を父のような絶対的な「基準」とし、模倣と反抗を繰り返してきた (後略) 

 (ロラン・バルト『明るい部屋』13 描くこと より抜粋) 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

実際のバルトの主張はこの後に続く "「写真」と「演劇」が「死」と関連して類似していること " なのですが、技術的に「写真で描く」ことが可能となった今日では、今一度、この箇所で使用された「ghost」について考えたいと思います。

 

[「絵画」の亡霊に悩まされてきた ] という「写真」が、デジタル技術の発展に伴い「写真で描く」ことが可能になり、ともすると、その亡霊から解放されたと考えてしまいそうです。

 

ですが、「写真」は絵画と同様のような媒体になってしまったことで、[「絵画」の亡霊 ] とより密接してしまうのです。具体的に言えば、「絵画」と「写真」と何が違うの? という問題です。今後、「絵画」が長年悩まされてきた「写真で充分なのではないか?」という問いのベクトルが正反対に方向転換し「写真」に向けられることになるでしょう。「絵画で充分なのではないか?」と。何でも意のままに構成出来る (と鑑賞者は少なくとも思っている) 写真において「何を表現するのか?」「何が良い写真なのか?」という問いは、絵画が長い歴史の中で問い続けてきた問い、「何を表現するのか?」「何が良い絵画なのか?」と同じ意味合いになるのです。

 

本書の [《雰囲気》] は英語版では [ air ] と表現され、それは被写体自身がまとっているものです。

 

 

 

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雰囲気とは、このように、肉体についてまわる光り輝く影なのだ。そしてもし写真がそうした雰囲気を示すのに成功しなければ、肉体は影を失うことになり、「影のない女」の神話のように、いったん影が切り捨てられると、あとにはもはや不毛の肉体しか残らない。写真家が生命を与えるのは、雰囲気というこの微妙なへその緒を通してなのである。

 

 (ロラン・バルト『明るい部屋』45《雰囲気》 より抜粋) 

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この air をどう掴むか。まさに絵画が目指してきたものであると言えないでしょうか。

 

 

 

髙橋恭司さんの個展「Ghost」の感想記事に、私は

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「絵を描く」ことに成功した写真が、「良い (と感じられる) 写真」なのではないか。 

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と書きました。改めて、展覧会の作品群を振り返ってみると、ウッドの額の過去作品には [ プンクトゥム ] が写っており、対照的に白い額の近年の作品は対象の air を捉えようと「描いている」作品群に観えてきます。

 

以下2画像は 髙橋恭司 個展「Ghost」@LOKO GALLERY 2022 の展示作品画像です。

 

「Jean's hand, NYC」

ウッドの額の過去作品。

映り込みがあるので見えにくいですがご容赦ください。手のひらの傷は [ プンクトゥム ] そのものの象徴のようです。しかし、個人的にはそこよりも、ジーンズ (デニムとはあえて呼ばない) の色褪せ具合に何とも表現し難い懐かしいカルチャーの匂いが感じられ、「刺さる」作品です。

過去の作品の多くはオリジナルフィルムを作家自身の手で焼却しているということから、プリントが無くなってしまったら後の時代に再現出来ないものであり、もちろん編集も不可能となるので、そういったことからもバルトの『明るい部屋』の文脈で語ることを可能にしていると思います。

 

「Flower」

白の額の近年の作品。

花がまるで人物の肖像画のように写されています。「偶然写ってしまった」と言うより「air を描こうとしている」と感じます。


 

 

 

 

髙橋恭司さんの個展「Ghost」は、バルトの『明るい部屋』の第一部と第二部を、過去作品と近年の作品で表現し、さらに近年のほうでは、今日「写真」という媒体に備わってしまった「描く」というオプションが意識され、[「絵画」の亡霊 ] に挑み、社会に飼い馴らされない写真の新しい形を探究していると捉えることも出来ます。

 

 

 

 

『明るい部屋』の書影と、個展「Ghost」のメインイメージ。似ています。


写真はこれからどこへ行くのでしょうか? 「写真」の明白さが失われ、絵画と同義になってしまったことに関して言えば、技術の進歩が必ずしも「進化」を意味するわけではない、と改めて思います。何でも「人間の意のまま」に出来るということは、裏を返せば「人間の想像の範囲を越えられない」という制限がもたらされたことになります。

 

 

 

何度も読み直したい本書

 

以上、ロラン・バルトの『明るい部屋』の現時点の感想でした。現時点、としたのは、私自身が未だ掴みきれていない部分があるのと、読む時代によって捉え直すことが出来るようにも感じており、折を見て、読み返したい本だからです。

 

写真を撮る人、写真が好きな人、写真より絵が好きという人にもおすすめの本です。とりあえず、「プンクトゥム」は声に出して言ってみたい。ぜひ、読んでみてください。

 

 

 


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