奥天昌樹 x 小左誠一郎「点景」
会 期:2023年8月12日(土) - 2023年9月3日(日)
時 間:13:00~20:00
休 廊:月火
場 所:gallery10[TOH]
展覧会URL:https://www.instagram.com/p/CvUs-4aycCb/?img_index=1
代々木駅近くの gallery10[TOH]さんで奥天昌樹さんと小左誠一郎さんの展示「点景」を鑑賞してきました。
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点景・添景(読み)てんけい:
〘名〙 絵画などで、趣を出すために加えられる人や物。風景画に描き添えられた人物など。また、それらを加えること。
(コトバンク 精選版 日本国語大辞典 「点景・添景」の意味・読み・例文・類語)
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奥天昌樹さんは1985年生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科油絵専攻卒業。ちぎられた紙の端を思わせるシェイプト・キャンバス (変形キャンバス) に明確なモチーフを排除して描かれた作品群は、絵画が孕んでしまう美術史的な文脈や過剰に付加される意味を取り除く意図を持っています。絵画におけるプロセス=積層は追体験可能なものと考え、「重ねる」と「取り除く」を仕込んだ作品は、工程の時間軸が行き来可能であることを示しています。
小左誠一郎さんは1985年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻油画修了。画題を「UPO (Unidentified Painting Object) 」(直訳すると「特定されない描かれた対象」でしょうか) とし、絵画が持つ特定できない何かに対峙しています。近年では、描くというより塗ることによって世界に新たな厚みを与える試みに取り組んでいます。
二人の接点は、19歳の時に同じ美術予備校に通っていた時点にまで遡ります。それもクラスが違ったため特段に親交があったわけではなかったそうですが、思いがけず再会し今に至るとのこと。一見して、タイプが全然違うように見える二人の作品ですが、上記のように作品の説明を試みると、捉えようとしているものに共通項を見出すことが出来ます。絵画の本質、とでも言うような、捉えどころのない「何か」。でも、確実に存在する「何か」。全ての作家もそれを目指しているのではないかと思えるような「何か」であり、鑑賞する側の私が言語化することなく感じ取る「何か」でもあります。私は何を持って「良い」絵画と思うのだろうか。そんなことを考えさせられました。
左:小左誠一郎「泥の花 "Japanese peat"」
右:奥天昌樹「SOGO#18」
奥天昌樹「putona#34」
奥天昌樹「putona#34」(部分拡大、別角度より撮影)
遠くから観るとチョークのようなもので「重ねられた」ように思えた白いストロークは、接して見ると「取り除かれた」部分であることが分かります。
色の重なり、ひび割れで生じた凹凸、取り除かれた白い部分との境にあるめくられたような質感等、心地よさを感じる部分がたくさんありました。
左:奥天昌樹「putona#33」
右:小左誠一郎「操縦 "Manipulation"」
左:奥天昌樹「putona#33」
右:小左誠一郎「操縦 "Manipulation"」(別角度より撮影)
奥天さんの「putona#33」は会場の光も取り込んで違った表情を見せます。
小左さんの「操縦 "Manipulation"」は観る角度によって、四角いパーツが折り紙のように見えたり、積み木のように見えたり、と厚みが違って感じました。
奥天昌樹「putona#33」
小左誠一郎「操縦 "Manipulation"」
小左誠一郎「操縦 "Manipulation"」(部分拡大)
絵の具が垂れている軌跡は意図して正確に操作出来るものではないですが、それが黒い線と重なることで色分けされたパーツに奥行きをもたらしています。タイトルの「操縦」とはこのことなのかな、と思いました。意のままにいかないものを操る、という意味です。
小左誠一郎「操縦 "Manipulation"」(部分拡大)
この、黒い線が合わさっていない角の部分に注目しました。この小さな白抜き (画像の部分では黄色い色が重なって黄色く見える四角) があることで、作品をただの色面「ではなく」している。他の角もぜひ観て欲しいです。このわずかな「光」を人の目は拾い、隙間や空間として認識するため、作品全体が立体的に感じるのかも。
二人の奇妙な共通点は、制作過程をそれぞれボードゲーム、試合と捉えていることにも現れています。
絵を描いたことのある人は心当たりがあると思いますが、絵は描いていく途中で様々な変更が生じます。自分が置いたはずの色や線や形を受けて、当初は考えていなかった一筆を次に繰り出す、対戦のような状況が生まれたりします。
個人的な経験として、小学生の頃に同級生と自宅のベランダから望んだ小山を描いたことが思い出されました (考え抜いた一手、というよりがむしゃらに「奮闘」してしまっているのですが) 。確か、夏休みの宿題だったと記憶しています。山の色がなかなか決まらない私は水彩絵の具と格闘していました。ビリジアンではなくて茶色とか紫とか白とか、油彩と水彩は違うというのもあまりよく分からないまま、様々な色を紙に定着させて「暑さで霞んだ山」を描こうとしていました。ビリジアンを置いて、違って、黄土色を置いて、違って、青を置いて、また違って、茶や紫や白までやってみたりして、自分なりに納得する色に辿り着いた後、それを横目で見ていた同級生は最終的に紙の上に現れた私の山の色を真似して塗って得意げに言いました「あなたが苦戦して時間をかけた色を私は一瞬で出せた。これで同じ山の色だ」。かなりひどいですね。でも私には分かっていたのでこう言い返しました「山の稜線を見てよ。私の山にはこの色の重なり、黄土色とか青とか茶とか紫とかが現れている。これはあなたの絵にはない」。いまだに思い出すくらいだから、自分が苦心して獲得したオリジナルの色を盗用されたことに少なからず傷ついていたんですが、結果、教室に貼り出された私の夏の山は、表現したかった夏の埃っぽい空気をしっかり孕んでおり、その同級生の絵とは全然違う絵であったことは間違いありませんでした (小学校の頃は絵の上手い子として認知されていたので、彼女が真似したがったというのもあるわけですが)。 その子の名誉のために言うと、彼女はその後、英語を猛勉強し、留学先でたまたま隣り合ったまったく別の国の男性から一目惚れをされ結婚し、また一からその別の言語を苦労して習得して海外で暮らしているそうです。人間の時間は各々の必要なことに振り分ければ良いんです。しかし、戦っている土俵が違っても、その道程に思いを馳せ敬意を払うことは忘れずにいたいのですが、そんな道のりを踏みにじるかのように作品を金儲けの道具にしか思わない人がアート市場に出現していることは嘆かわしいことです。→参考記事:雑記 2023/08/17 HOW TO「アート作品の手放し方」
話が逸れましたが、このような奮闘の行程が絵画に「何か」を与えることは確かなようです。先日まで東京都美術館で開催されていた「マティス展」(2023年4月27日 - 8月20日) に際して、マティスが色を剥ぎ取って塗り直した跡 (特に「座るバラ色の裸婦」はその痕跡が顕著に観て取れます) について言及している人が複数いることなども関連しているようで興味深いと思いました。
※下記画像は本展「点景」の展示作品ではありません。参考まで。
(引用元:マティス展@東京都美術館 公式X https://twitter.com/matisse2023/status/1666777096499200002)
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マティスってさ、なんかサッサって描いてるように見えるでしょ?スッと。
無茶苦茶描き直すんだよ。
まず、油描く前にもう、やたらめったらデッサン描いて
で、いざキャンバスに向かって油絵の上で描き始めてからも
何度も何度も描き直すんだよ。
絵が出てくるまで描く。
向こうから来るらしいよ。
だからもう年中、油落として拭いて落としたりとかで
(山田五郎 オトナの教養講座 【色彩の魔術師】アンリ・マティスはなぜ「野獣派」と呼ばれたか?【ピカソのライバル!?/山田五郎が解説】39:04〜)
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マティスがスッと時間をかけずに描いていたのであれば、あのような美しい空間はやって来なかったのでしょう。
時間と空間について、別の見方を挙げますと、『絵画の歴史 洞窟へ壁画からiPadまで 〈増補普及版〉』の中でデイヴィッド・ホックニーは
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絵画は時間、そして空間の芸術だ。私には少なくともそのように見える。素描で重要なのは、人物を空間に収められること。そして空間は時間を通じて作られる。
(中略)
しかし写真はすべてをいちどきに見てしまう。ひとつの視点からレンズを一度瞬かせるだけだが、私たちはそうではない。私たちがものに目を向けて、それが空間を構成する様子を見るには時間がかかる。それは間違いない。
(デイヴィッド・ホックニー & マーティン・ゲイフォード『絵画の歴史 洞窟へ壁画からiPadまで 〈増補普及版〉』 2020年青幻舎 p83より引用)
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というように、「時間、空間」と絵画との関係を視点から言及しています。
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最近では、時間抜きに空間は存在しないことを私たちは知っている。でもたった100年前には、誰もが二つは別々の、絶対的なものと考えていた。私たちは今、この二つはある意味で、同じものの異なる側面と見なしている。時間と空間は、本当は一つのものなんだね。しかし私たちには空間のない状態がどういうものか、想像することもできない。それは不可能だ。私たちは空間から、あるいは時間から逃れることはできない。時間に限りがあると知っているが、誰もが時間は伸び縮みすることも知っている。
(デイヴィッド・ホックニー & マーティン・ゲイフォード『絵画の歴史 洞窟へ壁画からiPadまで 〈増補普及版〉』 2020年青幻舎 p82より引用)
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絵画というものが三次元という空間を二次元で表現するものだとするならば、空間と同じものである時間を「プロセス」「積層」として作品に落とし込む奥天さんと、世界に新たな「厚み」という空間を与える小左さんの作品が呼応していると感じるのは必然なのかもしれません。二人は19歳の予備校時代という共通の始点に居合わせました。
小左誠一郎「回覧 "Judge in Circles"」
小左誠一郎「回覧 "Judge in Circles"」(部分拡大)
小左誠一郎「回覧 "Judge in Circles"」(部分拡大)
奥天昌樹「putona#31」
奥天昌樹「putona#31」(部分拡大)
奥天昌樹「putona#31」(部分拡大)
小左誠一郎「回覧 "Judge in Circles"」
小左誠一郎「回覧 "Judge in Circles"」(部分拡大)
小左誠一郎「回覧 "Judge in Circles"」(部分拡大)
奥天昌樹「putona#32」
奥天昌樹「putona#32」(部分拡大)
奥天昌樹「putona#32」(部分拡大)
奥天昌樹「putona#30」
小左誠一郎「蜻蛉 "Dragonfly"」
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絵画空間という景色に心を奪われたという一点は、画家であれば誰しもがそうであるかもしれない。しかし、、他の共通項を無理矢理に当てはめて、奇妙な納得を持ち帰る必要があるだろうか? 先述した通り、二人はとても軽やかな成り立ちで関係付けられ、知り合ってから現在まで、途中なら途中のままで良いというような振る舞いすらある。絵画に終わりはあるのかという堅苦しい問いは、絵画の始まりを決定することからだ。
小左誠一郎 (会場のテキストより抜粋)
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小左くんとは美術の道を志すスタートの時期に出会っていて、そこからどういう道を歩んで今に至るかを作品と話を通し、点と点が繋がっていく感じもまた棋譜を顧みて当時に逆行していくような感じがして面白かった。
奥天昌樹 (会場のテキストより抜粋)
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最後に私の持論を紹介したいのですが、見えている世界をとことん見つめ尽くさなければ抽象画を描くことは出来ない、と考えています。
抽象画を追求し続ける奥天さんと小左さんは、それぞれが積み重ねてきた時間と空間を作品に昇華出来るほどに目を凝らして見てきたのだと思います。そして点景とは、添えられるようなアクセントでありながら、時に物語を生み出し、作品に深みを与える重要なものです。全体と部分。俯瞰と凝視。よく見た者だけが点景を加えることが出来る。
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そしてそれは私も彼も19歳の頃から表面的な絵面は変わっていても純粋に絵画と美術に向き合ってきた事を意味していると思います。
奥天昌樹 (会場のテキストより抜粋)
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なぜなら二人が交わらなかった年月にも、常に絵画は二人の隣に居たはずだから。
小左誠一郎 (会場のテキストより抜粋)
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小左誠一郎「泥の花 "Japanese peat"」(部分拡大)
奥天昌樹「SOGO#18」(部分拡大)
私は彼らほどに自分と対峙する世界を「ちゃんと見てきたか」「見ているか」と問い直しました。
鑑賞者それぞれの物語と繋がる部分「オレでなきゃ見逃しちゃうね」が見つかるかもしれません。ぜひ、足を運んでみてください。
展示風景画像:奥天昌樹 x 小左誠一郎「点景」 gallery10[TOH], 2023
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