南谷理加 個展「黙劇」
会 期:2023年10月28日(土) - 2023年11月18日(土)
時 間:11:00-19:00
休 廊:日月祝
※ART WEEK TOKYO参加につき、11月3日[金・祝]、5日[日]は10:00-18:00でOPEN
場 所:小山登美夫ギャラリー六本木
展覧会URL:
2021年の Bambinart Gallery で開催された個展「WONDERLAND Ⅲ」と、2022年の biscuit gallery でのトリプル個展「SOLO SOLO SOLO vol.3」での「ブレイン・ウォッシュ」について感想を書かせていただいた、南谷理加さんの個展に伺ってきました。
参考記事 :
このサイトの感想記事は、大富豪でもなく、どこのギャラリーの顧客にもなっていない (なれない苦笑) 、一介のアートファンである私が、好きな作品に出会えたらちゃんと「買える」というのを目安に書いているのですが、小山登美夫ギャラリーでの個展ということで予想した通り、南谷さんはもう容易には手に入らない作家さんになりつつあるかもしれません。でもでもでも❗️2年前に初めて鑑賞した時から「すごい❗️」と思っていた作家さんなので今回も感想を大容量で綴ります。最近はあえて個人的な嗜好に偏ったサイトを目指していることもあって、好きな作家はずっと追いかけたい。
前回、前々回の感想と繰り返しになるかもしれませんが、南谷さんの絵を前にすると「「犬」とか「人」とか言える程度に具象化されているにもかかわらず、作品全体の持つ抽象性と、画面構成の完璧さ」に打ちのめされます。結果「すごい❗️」というような感想に終始してしまいがちです笑。
南谷さんの作品制作は「一回データを (脳内) に入れて暗号として出すという作業に似ている」と個展「ブレイン・ウォッシュ」時に公開された動画で言及されていました。そこから考えると、具体的に見える「犬」とか「人」とかの姿は「概念」というか、南谷さんの中で構成されている「本質」のようなものであり、頭の中で考えられたイメージというのは安易になりがちなところを、逆に、複雑で「一言では表しづらい」ものとして「正確に」顕現させた結果がこれらの作品群なのかな、等々、思ったりしました。
普段は「目に見えないもの」の「顕現」、、、!!! かっこいい。「折本里香、完全顕現 422秒 (呪術廻戦)」ならぬ、「南谷理加 (の頭の中) 完全顕現、、、!!!」(安易な言葉遊び、ごめんなさい) 。
「概念」とか「本質」「イデア」だから南谷さんの絵は「かっこいい」であり「かわいい」であり「不気味」であり「楽しそう」であり「美しい」であり「醜い」でもあり「物語の始まり」でもあり「途中」でもあり「終わり」でもある、のでしょうか。いや「考えるな感じろ」で、まず実物を鑑賞するのが正解な気がします❗️
本展のタイトルは「黙劇」で、これはパントマイム (pantomime、無言劇) の日本語訳、とのことです。
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作家はこの訳を知った際、昔見たパントマイムの「なにかをしているふり」と、自身の絵の中の人物などが繋がったといい、また同時に「黙」として言葉を語らないモノである絵画の性質とも共通項を見出します。
(TOMIO KOYAMA GALLERY 南谷理加「黙劇」より抜粋)
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なにかをしているふり、、、私が感じた「本質」とは真逆ですね、、、。「イデア」じゃなくて「ミメーシス」ということか、、、(小難しいことを言いたいだけなのでスルー推奨)。
「Untitled #0220」
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南谷さんの作品の不思議なところは、実物を見ると「あれ、ここにこんな表現が」と気づく、というところです。スマホカメラが普及して久しい現代だと「スマホで撮影すると気づくことがある作品」というのは、いろんな展覧会に行っていると意外に多く遭遇しますが (おそらく、作家さんが制作の途中でスマホ撮影し、その画像から受ける印象を確認して描き足す等々しているのではないか、と推測してます) 、南谷さんは逆で、スマホやその他の画像では気づかなかったさまざまなことが実物の作品と対峙すると見えてきます。
「Untitled #0247」
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この作品はギャラリー入ってすぐの正面にあります。まるで、入ってきた鑑賞者に驚いているような、入ってきたのを認識したかのような表情です。入ったのはギャラリーでなく、目に見えないもの達の世界だったのではなかろうか?「おっ?」「来たな」みたいなセリフが浮かぶ。異世界をのぞく時、異世界もまたこちらをのぞいているのだ、、、。
「Untitled #0261」
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南谷さんと言えば「犬」という気もしますが、これは普通に見たらケルベロスかなと思いつつ、どこかそうじゃない感もあります。同じ犬の別の顔?なのか、顔の犬種もそれぞれ違うみたいだけど、同じ犬が首を振っているアニメーションにも見える。1つなのか無限なのか、哲学的な問いを突きつけられているような? キャンバス地そのままといった背景が羊皮紙の色にも思えて、未だ解読されていない中世の写本の挿絵を見ているような感じも受けました。
「Untitled #0261」(部分拡大)
まだまだ続きます。
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「Untitled #0281」(部分拡大)
色校正のような2本の色の線が右上にあります。たったこれだけの分量の絵の具が乗っているか乗っていないかだけで画面全体が変わって感じる。「絵」というものの深淵。
よく観ると奥の人物の輪郭の緑の滲みも、それだけで「髪」のような質感を感じることが出来ます。
というか、本文を書いていて、しょっちゅう左右が不明になるという混乱状態が訪れているんですが、自分が知らないうちに画面の中の人物に憑依させられていて「画面の人物の中の左右」と「観ている側からの左右」が逆だから混同しているのかも。絵の中に入り込むという鑑賞方法は意識しないと出来ないことが多いのですが、これが無意識で発動してしまうのも南谷理加作品のヤバいところか。
左より「Untitled #0198」「Untitled #0205」「Untitled #0195」
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また雰囲気がガラッと変わる3作品です。「作品を見て、作者が誰か分かる絵は多いが南谷さんはそうではない」とBambinart Galleryの米山さんがおっしゃっていたことが思い出されます。なんとなく不穏な物語の一場面のようにも思えるけど、色が統一されていて綺麗で、こういう3作品をシックでシンプルな調度品と並べて部屋に飾ったらめちゃくちゃかっこいいんじゃないかと思いました。シノワズリなインテリアにも合いそう。
まだまだまだ続きます。
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「Untitled #0282」
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これは、、、もうなんと言っても後ろの大きい顔、それと複数いる骸骨ですよね。なんじゃこりゃ。
「Untitled #0278」
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よう分からんけどかっこいい絵だと感じるシリーズ。
「Untitled #0278」(部分拡大)
展覧会タイトル「黙劇」の説明にあった「なにかをしているふり」という言葉から考えて、絵の登場人物たちは舞台の上で演劇をしているのかもしれない。しかし、演劇性というような「わざとらしさ」のようなマイナス面を感じられないのは、南谷さん自身が「この絵はこう観て欲しい」という押し付けを持っていないからだろうな、と思います。
「Untitled #0276」
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驚いている。
「Untitled #0276」(部分拡大)
「Untitled #0277」
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すごいアクロバティックな姿勢でちょっと真似してみたくなりました。顔と手足の放射線状のバランスが、なんかBOØWYのシルエットっぽい (ただの連想です)。
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これね。いや、なんとなく思っただけです。
本当、南谷さんの作品の感想は、こう、形とかに目がいってしまって、美術史的な何か、というようなことが言えなくてごめんなさい。絵そのものに力があるので、引っ張られるのです。
「Untitled #0277」(部分拡大)
「Untitled #0260」
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これなどは、エゴン・シーレのような雰囲気を持ちつつも、、、
「Untitled #0260」(部分拡大)
瞳の丸とカタツムリの殻と手に乗ったカエルと、今まで点在していた色々な色の丸と、、、。やっぱりどこか別次元の視点にフッと飛ばされる感覚があります。
絵画のイリュージョンとは、3次元またはそれに時間の概念を加えた4次元を2次元に召喚することにあった、と仮定すると、南谷さんのイリュージョンは私たちが普段把握している次元より上の何次元かを2次元に召喚している、のかもしれない。なんらかの新しい「概念」が加わっている気がする。
以上、つらつらと綴ってきましたが、何度も書くように、良い絵ということは分かっているんだけれど、具体的に何がどう良いのかは見た人にしか分からない、というのが南谷さんの作品です。
あえて、美術史的な意味を持たせるとしたら、という自分の中の勝手な課題を考えてみました。
コンセプトだったり、技巧だったり、そういったものが出尽くした中で、そして「好き嫌いなどの感覚的なもので美術を語るのは初心者的な見方であり、作品の中にある普遍性や歴史の中での位置を見出して初めて美術としての価値が生まれる」ということもある程度受け入れられるようになった今の日本で (本記事のように個人的感想を連ねるサイトをやっているので誤解されがちですが、私は「美術は感覚的な好き嫌いで判断するものではない」というルールにはもちろん大賛成でそれに従いたい人なんです、実は) 、でもアートに接する機会が少ない人たちからはまだまだそのルールが理解されにくい今の日本で、美術鑑賞のプロである人たちや、価値づけのプロであるギャラリスト、私なんぞよりも多くの作品を見て来た人たちが、こぞって言葉による評価に依らず「良い」と判断しているのが南谷理加さんである、ということが、「絵そのものが持つ力」を見直す転換点になり得ていると言える、のかもしれない。
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南谷のそうしたバランス感覚は、特定の意味を伝える手段でも、視覚効果の追求のみでもない、作家が「絵として自立した絵」と形容する独特の視覚言語を確立しています。
(TOMIO KOYAMA GALLERY 南谷理加「黙劇」より抜粋)
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そういった意味でも、美術鑑賞の初心者から上級者まで、すべての人におすすめ出来る展覧会です。なぜPCやスマホの画面ではなくて実物を観ないと分からないのか、が実感出来る展覧会とも言えるかもしれません。ぜひ、足を運んでみてください。
展示風景画像:南谷理加 個展「黙劇」小山登美夫ギャラリー六本木, 2023
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