長谷川由貴 米村優人「自生するキメラ」
会 期:2025年1月18日(土) - 3月23日(日)
時 間:11:00-20:00
休 廊:会期中無休
場 所:BnA Alter Museum 1/2F
展覧会URL:
先月、愛知→京都と弾丸で旅をしてきました。
せっかくなので京都で観た展示の感想を一つ、したためたいと思います。展覧会情報は都内に一極集中し過ぎ❗️という批判も聞こえてくる昨今。もちろん、東京以外にも興味深い展示はたくさんある❗️
宿泊型ミュージアムである BnA Alter Museum で開催されている、長谷川由貴 米村優人「自生するキメラ」に行ってきました。
展示情報(https://bnaaltermuseum.com/event/AutochthonousChimeras/) には
ロザリンド・E・クラウスによる1978年の 「グリッド」 という論考の名前があがっております。
💥ばばーん💥(効果音)

会場にも関連書籍が置いてありました。
ということでまずはこの論考を絡めて感想をスタートさせたいと思います (作品の画像は記事の最後のほうにまとめます) 。
さて、展示タイトルの「自生するキメラ」ですが、
「自生する」・・・上記の「グリッド」の中でクラウスは「人間の起源を自生の過程 (人は植物のように、大地から生まれた) とする初期の考え方」とレヴィ=ストロースを引いている箇所があるので (p.28) それを受けています。
で、本展では「自生する」のは「キメラ」なんですねー。
ドラゴンクエストに始まり、RPGで数々の魑魅魍魎を倒してきたわれわれ日本人にとって「キメラ」はメジャーな存在ですが、定義をちゃんとしておくと
「キメラ」・・・ギリシャ神話中の「体の前の部分はライオン、胴の部分は山羊、後ろは蛇、口からはさかんに火炎を吹く」という想像上の動物の名(キマイラ)に由来し、「異質同体」を指す。
キマイラ
つまり展覧会タイトルは、「異質同体」なものが「自生する」ということです。
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改めまして本展「自生するキメラ」では、上述された人間の起源にある自生の過程(人は植物のように、大地から生まれた)に、人間ならざる存在としての「キメラ」を差し込むことで、動物や植物そしてそのセクシャリティーなど既存の生物的・社会的カテゴリーにおけるグリッドに揺さぶりをかけ、不安定化することを意図しています。
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ステートメントでは、クラウスの「グリッド」の性質の一つ、すなわち "神話という構造を持っていて、矛盾が内在しており覆い隠されている" ことが語られています。
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"人間の起源を自生=autochthonyの過程(人は植物のように、大地から生まれた)とする初期の考え方と、両親の性的関係を取り込んだ後の考え方との間に葛藤が存在する"
この葛藤はグリッドという構造の中で解決されることなく抑圧され、矛盾したまま維持・反復されていくのです。
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コウノトリが赤ちゃんを運んでくる説と実際の子作り、その間のギャップを覆い隠したまま反復させてしまう構造がグリッドにある、ということですね。
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それゆえ、グリッドは確かに物語ではないが、構造である。しかもこの構造は、モダニズムの意識、あるいはむしろその無意識の内部に、科学の諸価値と精神主義の諸価値との矛盾を、抑圧されたなにものかとして維持する。
ロザリンド・E・クラウス 小西信之 訳 谷川渥 訳 (2021) 『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』月曜社 p.29
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ふむふむ。確かにこんなグリッドなら、揺さぶりをかけたい気持ちになるかも。
なぜこんな構造をグリッドが有しているのか?ということがクラウスのこの論考のキモと思うのですが、長くなるのでここでは紐解きません❗️
現代においても「既存の生物的・社会的カテゴリー」に矛盾が内在しており、それは覆い隠され反復されようとしている、ということでしょう。
そんなグリッドを揺さぶるものが「キメラ」という位置付けです。
しかし、クラウスの「グリッド」を読むと、グリッドの他の要素からグリッド=「キメラ」なのではないか、という考えが浮かびました。
イコールというより、変遷した先にあるもの、という説です。出世魚的な。どういうことでしょうか。
クラウスの「グリッド」では、空間的な意味と時間的な意味においてグリッドの近代性が宣言されます。
まず空間的な意味においてグリッドは「反自然的、反模倣的、反現実的」なものであるということです。自然界にハッキリとグリッドが出現することはないので、視覚的にもここは理解しやすいです。
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平面化され、幾何学化され、秩序づけられたグリッドは、反自然的、反模倣的、反現実的である。それは、芸術が自然に背を向けたときの相貌である。
ロザリンド・E・クラウス 小西信之 訳 谷川渥 訳 (2021) 『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』月曜社 p.23
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そして時間的な意味においてグリッドを「反発展的なもの、反叙述的なもの、反歴史的なもの」としています。歴史の流れの中のある到達地点、すなわちモダニズムの時代に流れをぶった斬るように新しく現れた形象がグリッドである、と言うのです。
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時間的次元において、グリッドは、ただグリッドであることによってモダニティの一つの標章である。この形態は、われわれの世紀 (二十世紀) の美術にあっては至るところに存在しているが、前世紀の美術にはどこにも、まったくどこにも姿を見せていないからだ。モダニズムは、十九世紀のもろもろの努力から生まれ出たが、その大いなる連鎖反応のなかで、一つの最終的変化がその鎖を断ち切るに至った。グリッドを「発見」することによって、キュビズム、デ・ステイル、モンドリアン、マレーヴィチ……は、それ以前のあらゆるものの圏域の外の場所に降り立った。
ロザリンド・E・クラウス 小西信之 訳 谷川渥 訳 (2021) 『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』月曜社 p.23
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いかにわれわれが良い芸術と変化との間に関係があると考えることに慣らされているとしても、そこにはなんら必然的関係はない。実際、われわれがグリッドの経験をますます拡大してゆくにつれてわかったことは、グリッドのもっともモダニズム的な特徴の一つが、反発展的なもの、反叙述的なもの、反歴史的なものの一つのパラダイムあるいはモデルとして働くその能力にあるということである。
ロザリンド・E・クラウス 小西信之 訳 谷川渥 訳 (2021) 『アヴァンギャルドのオリジナリティ ―― モダニズムの神話』月曜社 p.39
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この「反自然的、反模倣的、反現実的」「反発展的なもの、反叙述的なもの、反歴史的なもの」という要素だけ取り出すと、グリッド=「キメラ」なのではないか?という考えが浮かんできたのです。
「反自然的、反模倣的、反現実的」という言葉は、「キメラ」を想像した際に浮かび上がる像にも無理なく当てはまります。そもそも脊椎動物は移植免疫があるために成体ではキメラにはなれないという事実があります。反自然的です。
「反発展的なもの、反叙述的なもの、反歴史的なもの」という形容も、「キメラ」の出自を考えるとまさに当てはまると思います。移植免疫のため成体からでは発生しない「キメラ」は、細胞状態の時になんらかの変異が起こるか、変異を人為的に起こすかして作られる。とするならば、「キメラ」は、連綿と続く生命の進化からはずれて突如現れる突然変異体のような存在、あるいは、父も母も必要とせず、実験室で生まれることが可能な存在と考えて良いでしょう。物語や歴史を必要としないのです。
(そういえば、ドラクエの「キメラのつばさ」って瞬間移動を可能にするアイテムだから、空間や時間をぶったぎるもの、と位置付け可能ですね。)
、、、と、ここまで考えましたが、「自生する」ということと「反自然的、反模倣的、反現実的」「反発展的なもの、反叙述的なもの、反歴史的なもの」は矛盾するように思えてきました。
ここで、ちょうど姉妹サイト frenzie.online の Book Report 小谷真理『女性状無意識』の記事で取り上げたダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」に補助線を引いてもらいます (人は自分の読書歴に引きつけて考えてしまう生き物💦、、、)。
ハラウェイの「サイボーグ宣言」について軽く触れておきますと、「サイボーグ宣言」においてサイボーグとは、「人間と動物」 「有機体と機械」 「物理的なるものと物理的ならざるもの」の境界などあらゆる二項対立を解体する存在として定義されています。
サイボーグを "人間と人間以外のものとの融合体" と捉えると、本展の「キメラ」「異質同体」に重なってきます。
そして「サイボーグ宣言」は現代社会におけるありとあらゆる “人工的なもの" ——家庭、市場、職場、国家、学校、病院、教会——を明らかにしました。このことは、本展の「自生する」という部分に結びつきます。どういうことかというと、私たちは知らず知らずのうちに家庭、市場、職場、国家、学校、病院、教会といった “人工的なもの" と分かち難く結びついてしまって、まるで「自生」したかのごとくサイボーグ ≒「キメラ」になっているのだ、ということです。
体の一部が機械になったサイボーグではないものの、たとえば私たちはスマートフォンがなければ、注文、支払い、就職、人間関係を形成するコミュニケーションといったすべてが困難な状態に陥ってしまいます。現代人はスマートフォンと肉体の「キメラ」と言うことも可能でしょう。
本来なら、成体からは発生しないはずであった「キメラ」ですが、、、?
大きな物語が終焉したポストモダンの時代では、細分化した個々の物語によって社会が複雑化しています。グリッドのソリッドな輪郭においては周囲との分け隔てが可能だったのに、その輪郭はくずれて複雑なテクスチャーの接続面と変貌し、周囲と癒着が起こりやすくなってしまった。ゆえに“成体状態からの「キメラ」“ という現象が可能になってしまった、ということでしょうか。
知らないうちに私たちは「キメラ」になっていた、、、
クラウスの「グリッド」が1978年、ハラウェイの「サイボーグ宣言」が1985年。これらは連関して、ある一つの状態を予言していたかのようです。その予言というのが現代の「自生するキメラ」です。
モダニズムを体現していたグリッドは実はニューロチップで、ポストモダンの時代に過剰成長を果たし、自身の輪郭を突き破りサイボーグに、そしてキメラに変貌していった。
当初グリッドにより分け隔たれていたものは境界が不鮮明になり、覆い隠されていた矛盾は白日の下にさらされるも、あるがままの奇妙な形態として統合される。
こう考えると、「既存の生物的・社会的カテゴリー」に内在していた矛盾が明らかになっても奇妙でいびつなままに放置されているような現代の実情にしっくりくる気がするのですが、、、たとえばジェンダーの問題ですとか、、、声は上がっても実情は変わってない部分が多いのでは?過渡期だからかな?
作品を観ていきましょう。
長谷川由貴さんの作品は、意志が宿っているかのように鑑賞者側を見つめる植物が印象的です。色彩や構図は、ストリートアートやファッション雑誌の1ページ、あるいは琳派を想起させます。ジョージア・オキーフとはまた違って、性的に解釈される余地はありません。
米村優人さんの作品は、どこかで見たことがあるような彫刻やキャラクターを彷彿とさせる雰囲気を漂わせつつもオリジナルな造形です。諦観とユーモアとかっこよさが感じられる立体作品でした。上位存在、ってこんな姿形をしているのかもしれない、、、?
意志のある植物?
キャラクター?
上位存在?
そうです、これらは私たちと分かち難く結びついている「キメラ」の姿です。
そして二人の作家の作品の間はもちろん、他の展示 (会期中は特別展「多声性のトーチ」と一部会場を共有) やカフェスペースとも境界なく鑑賞されうる展示のなされ方から、さらに新たな「キメラ」の「自生」の場となっていると読み取りました。「キメラ」の連関は続く。
























カフェが繁盛していたため、2階にある作品はすべてを撮影できず。ぜひ、観に行きましょう。
、、、いつもならここで感想を終えるところですが、今回はもう少し。
ポストモダンの時代には、二項対立が見直されあらゆる境界がぼやけてきました。境界があいまいな状態というのは現代人にとっては快か不快か、という疑問が私の中で生じています。人間側の "快、不快” のみで語ること自体が良くないことではあるのでしょうが、やはり気になります。
この感想でも、なんだか悪いことのようなニュアンスで
知らないうちに私たちは「キメラ」になっていた、、、
なんて書いてしまいましたが、果たして悪いことなのか、または、良いことなのか。
個人にしろコミュニティにしろ、世界においてパキッと区切られることは良い面と悪い面の両方があると思います。境界があるからこそ秩序が保たれることもあれば、不均衡やマイノリティの問題等を生むこともあるでしょう。
クラウスの「グリッド」においても双価的構造が指摘されていました。グリッドによって作品の外にまで意識が拡がる「遠心的」な性質と、グリッドによって作品の中心に向かって意識が集中する「求心的」な性質です。
「遠心的」というのを世界に向けて境界が開かれた状態、「求心的」というのを世界から区切られ閉じた状態、と読みかえるならば、グリッドのこの双価的構造はまさに「異質同体」であり「キメラ」です。このようなのアンビバレントな状態のままで在ることが現代に求められているのでしょうか (クラウスはこれを分裂症的と書いていますが、、、) 。
「自生するキメラ」というのは大きな物語が終焉した後の世界における一つの理想形か否か、そんな問いを持ったままこの感想を終わりたいと思います。
展示風景画像:長谷川由貴 米村優人「自生するキメラ」BnA Alter Museum, 2025
本日のBGM
ORIGA 菅野よう子「Inner Universe」
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最近『攻殻機動隊』のことばっかり言ってる気がする、、、S.A.C. のこのOPは忘れがたし!
ロシア語、ラテン語、英語の混ざった歌詞 (異質同体!?) だから内容を理解してなかったけど、"Inner Universe 歌詞 日本語訳" で検索したら20年越しに意味が判明。あ、今は AI があるから多言語翻訳も簡単なのか。
STAND ALONE COMPLEX = 自立した複合体、というのも今回の「キメラ」に合っている気がして。
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